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沖縄ベタニヤチャーチの山内牧師のブログです。毎週更新しています。

2024年4月7日

ヨハネ1章1~7節「ことばは神(イエス)だった」
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

「ここは有名な「ことば」についての箇所だ。「ことば」は大変大切なものである。人とのコミュニケーションに最も大事なものである。「ことば」なくして人との交わりは出来ない。もちろん「ことば」が何らかの理由で出ない方もいる。しかし一般的には誰でも「ことば」を自然に発することが出来る。ただこの「ことば」は使い方によっては恐ろしい武器にもなる。
今、「うつ病」についての話し合いをしている。現実に「うつ」を患っている方や「うつ」を経験した方々と共に「うつ病」の方々にどのように向き合えばいいのかの話し合いである。大体15~20人くらい集まる。もう六回目になった。「こころ」の病だからとても気を使わなければならないと感じているのだが・・・。多くの方々の参加を望んでいる。」

2024年3月31日

ヨハネ20-1~10節{主の甦りに感謝を捧げよう}
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。20:6
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。20:9
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

「復活祭(イースタ-)をキリスト教の先進国の韓国ではどのように祝っているのかを知る(見る)為に奈良蓮兄弟と訪問した。
クリスマスはイエスの誕生を祝っている最高のイベントである。これと併せて甦り(復活)も同じように大事であるはずだが、教会やクリスチャンの間で一向に盛り上がらない。何故だろうか?ある面では甦りの方が大事だと思うのだが・・・。もし甦りがなければ私達の宣教は空しく、信仰も空しいもと言っている。(Ⅰコリント15-14)
韓国で素晴らしい復活祭への取り組み方を学んだ。ハレルヤ!これが礼拝堂の中に置いてある十字架である。是非ご覧になって、復活の主に(祈りのカード)を書いてほしい。感謝して欲しい。アーメン。」

2024年3月24日

マルコ14-32~42{受難週に挑むイエス}
14:32
さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、14:34
彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」14:35
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。14:38
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」14:39
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。14:40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。14:41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。14:42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

「来週は復活祭(3月31日・イースター)だ。私達の罪の為にイエス様が身代わりになって十字架に架かったのがこの日である。その前が「受難週・3月24~3月30日」だ。十字架は身代わりと言う。しかしこのことを理解するに時間がかかった。なかなか理解出来ずに苦しんだ。しばらくは、「なんで?」のはてなが???続いた。しかしある時理解・納得した。それは自分の罪の深さと恐ろしさを思い知った時だった。ハレルヤ!この罪が分からなければイエスの十字架は理解出来ないし、十字架の死ぬほどの苦しみも痛みも分からない。感謝も出来ない。当然だ!しかし今はとても有り難いことだ。とイエス様に感謝を捧げるのみである。アーメン。」

2024年3月17日

マタイ23章3~13 {この世の終わりの印は何か}
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
24:4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
24:6 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。24:9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。24:10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。24:11また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。24:14
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

「終わりの日、すなわち終末はいつ来るのか?はクリスチャンになってから良く聞かされることばだ。確かにこの地上は永遠に続くわけではない。もうその印が顕われている。これはクリスチャンにしか分からない事だ。なぜなら聖書にしか書いていないからだ。聖書を読み、理解出来るのは私達だけだ。また聖書は預言の書とも言われている。このことを信じる方は幸いである。①偽キリストが現れる。②戦争が起こる。③飢饉が起こり、地震が起こる。④迫害が起こる。⑤偽預言者が大勢起こる。⑥不法がはびこる。⑦人々の愛は冷える。等々が印である言う。目を覚ましておこう。アーメン」

2024年3月8日

箴言8章22~31{イエスの喜び}
8:22 【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
8:23 わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
8:24 まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
8:26 主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
8:27 主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、
8:28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、
8:29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、
8:30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。v 8:31 主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。


「この箴言8章には驚くべきことが述べられている。天地万物をイエスは天の父と共に創造したと言っている。つまり万物の創られる前に既にイエスは存在していたのである。大昔に産まれていたのだと(28節)。そして地球を組み立てたのである(30節)。毎日が喜びに、父の前で楽しんだと。ハレルヤ!イエス様は喜んで天地万物を創られたのである。その働きを御言葉から想像すると、楽しみながら喜びながら創造したことが分かる。特に、自分達に似せて人を創った時の喜びは計り知れないものだったのだろう。
私達も喜びながら、楽しみながら仕事に礼拝に賛美に伝道に励もうではないか。また、我らも神の子なのだから、イエス様みたいに楽しいクリスチャンの人生を送ろう。アーメン。」

2024年3月3日

黙示録2-1~7節{初めの愛は素晴らしい}
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。
2:2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。
2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』


「今日は黙示録からの聖書である。黙示録はご存じの通り難しさでは一番であろう。何しろ多くの意味不明な言葉や生き物が登場するからである。また未来について起こるであろう事が書いてある。つまり「預言の書」なのだから。
その中でも七つの教会あてに書かれているところはかろうじて、唯一理解出来る箇所である。一番初めに登場するのが「エペソの教会」である。戦いの教会でもあり、聖霊が豊かに満ちていた教会である。しかし、「初めの愛から離れた」と厳しく戒めている。
何事にも初めがある。愛もその一つである。言う通りに「人の愛」は段々とマンネリ化し薄れて行く。これは誰もが体験することではないだろうか。ここはクリスチャンとて例外ではないことを示している。だから私達は気を付ける必要が在る。そしてイエス様への愛が覚めることが無い様に、イエス様から目を離さないようにしよう。アーメン」

2024年2月25日

*ヘブル書4章12節{御言葉の力}
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
*へブル11-3節 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
*Ⅱテモテ3-16節 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
*Ⅰペテロ1-23節 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
*箴言30~5節 神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。
*詩篇12篇【主】のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
*エレミヤ23~29節 わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。──【主】の御告げ──
*マルコ12章-24節 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

「み言葉がいかに優れていて、力があり、尚且つ、人間の人生に絶対に必要なるものであるかを示している箇所を拾ってみた。これらの御言葉は暗証聖句として肝に命じて欲しい。そしてこの御言葉を信じて雄大に生きて証を立てて行こうではないか。神がダイナミックに活用したように私達も信仰を持って御言葉と共に生きて行こう。『初めに言葉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった』ヨハネ1-1イエスこそ御言葉である。アーメン」

2024年2月17日

Ⅰヨハネ4:6~13(愛の人になりたいのだ!)
4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
「愛の人になりたい!」と叫んできてから24年が経った。長い戦いの人生だが、いまだに愛の人になれない。どうしたものか?7節では「互いに愛し合いましょう」と言う。そして「愛の人は神を知っている」と。8節では、「愛の無い人には神は分からない」と言う。厳しすぎると思うのだが・・・。しかし神が聖書を通して言うのだから間違いはないはずだ。 神は独り子をたもうほどにご自分の愛を私達に示した(9節)。愛の神であることはよく知っている。愛の人になることほど難しい事はこの世には存在しない。しかし諦めるわけにはいかないのだ。何とかして、どんなことがあっても「愛の人になるのだ」と改めて誓った次第だ。皆にもお願いしたい。私の為に祈って欲しい。いや、「祈ってくれ!!!」と叫びたい。

2024年2月11日

詩篇23篇1~6(第3版)(祝福と奇跡の神様)
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

「この23篇は一番人気の御言葉です。また私達をとても慰めてくれます。おそらくあなたもこの23編が一番好きではないでしょうか。私も大好きですが、特に1節が良いですね。(乏しいことが無い・・)つまり貧乏ではないと言う宣言ですね。アーメン。
もう一つ大好きな詩篇の言葉は1章3節(何をしても栄える)アーメン。いいですよね。何をしても成功するとの約束です。アーメン。
三つ目が、詩篇103篇5節(あなたの若さは、鷲のように新しくなる)アーメン。凄いと思いませんか。年を取っても若くなるとの約束です。アーメン。
何でも出来る、主はほんとうに素晴らしい。アーメン。クリスチャンは幸せです。天の父は何でも叶えてくれますから。アーメン」

2024年2月4日

使徒の働き10章34~43節{証人に任命された}
10:34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
10:35
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。10:36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
10:40 神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
10:42 そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。

私達には信じている主イエスのことを良く知ることが必要である。
イエスはえこひいきはしない方である。(34節)アーメン。
イエスは全ての人の主である。(35節)アーメン。
イエスは良い業を行い、サタンに押さえつけられた人を解放したアーメン。(38)
イエスは私達に、伝道し、証しすることを命じた。アーメン。(42節)
イエスは私達を選ばれた。証人として。(41節)アーメン。
以上のことを明確にしましょう。アーメン。

2024年1月27日

詩篇42:3~11(神の手が動くまで待とう)
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
42:6 私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
42:7 あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。42:8 昼には【主】が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
42:9 私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。42:11 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

「この詩篇は、問題に向き合う方法を教えている。非常に簡単に思えるが、実行するのは非常に難しい。問題にはにっちもさっちも行かないことがある。
どうすれば良いのか分からなくなる時がある。つまり「あり地獄」というものだ。もがけばもがくほど状況は苦しくなる。その時に神は、み言葉を通して解決の秘訣を示す。それはただ一つだ。「我がたましいよ・・・」という箇所がそうだ。2回出て来る。43章にも1回登場する。つまり、「黙って祈れ」いうことだ。そして神のみ手が動くまで神を待ち望むのだ。アーメン。」

2024年1月21日

コリントⅠ13章1~10節(岩波訳聖書の真理)
1、もしも私が、人間の、そして御使いたちの言葉によって語りはしても、しかし愛をもってはいないなら、私は鳴り響く銅鑼(どら)か、あるいは甲高(かんだか)く鳴るシンバルと化してしまっている。
2、またもしも私が預言をなし、さらにすべての奥義とあらゆる知識とをもってはいても、またもしも私が山々を移すほどのあらゆる信仰を持ってはいても、しかし私が、愛をもってはいないなら、私は無である。
3、たとえ私が、私のすべての財産を分け与えたとしても、またもしも私が、私の体を焼かれるために引き渡しても、しかし私が愛をもっていないなら、私は何の役にも立たない。
4、愛は寛容であり、親切である。愛は妬(ねた)まず、愛は自慢せず、高ぶらず、
5、ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企(たくら)まず、 6、不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ。
7、愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8、愛は決して倒れることがない。

このコリント13章(愛の章)の訳は「岩波訳」と言われ、新約聖書のみが発売されている。読んでみたらとても良いので紹介することにした。赤字の部分は、今の聖書との訳の違いである。どちらが良いかは読む人次第だ。私は読んでみて良いと感じた。何が良いと感じたのか。①字が大きい。②小説みたいにまとめてある。(だから読みやすい)③解説と見出しが頻繁に使われている。
④原文に忠実である。等々。たとえば「ライ病」の箇所はそのまま記している。今の聖書はすべてが「ツァラアト」になっていて社会に合わせているのである。もう一つ見てみよう。13節「そこで、今や、信仰、希望、愛、これら三つが存続する。しかし、それらのうちで、最も大いなるものは、愛である。」

2024年1月13日

ヨハネ15章1~8 {ぶどうの人生とは?}
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

「イエス様は多くの例えをもって私達クリスチャンを教える。花や、鳥や、動物や、空や、山や、川等々。今回のぶどうもその一つである。イエス様と私達との関係を教える。そしてそれは私達が豊か人生を送れるようにとイエスの愛を示してると思う。私はぶどうが大好きだ。ほぼ毎日食べている。ただ単に好きだから食べているのではない。健康の為でもある。それと関連して牛乳も飲も飲んでいる。イエス様はイスラエルのことを「乳と蜜が流れる地」と呼んだ。つまり、乳と蜜は素晴らしいものと言っているのだ。アーメン。そしてもう一つは霊的な豊かさを示している。ぶどうは木に繋がれて初めて実を結ぶ。それはイエスと結ばれて初めて私達の人生は豊かな実を結ぶのである。ハレルヤ!」

2024年1月7日

創世記1:14~29(すべてが最高の作品類)
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
1:22
神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。::26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
1:27
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地をえよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
「前回は創世記1:1~13から時間の発生までを話した。今回は創造5日からを話すことにする。あらゆる植物を創造した後、5日目からは動物類を創造した。海の巨獣はヨナを飲み込んだクジラ類であろう。またヨブ記に登場する恐竜類も含まれると思われる。最後が人間である(26節)。そしていつもの通りにご自分が創ったものを見て「良かった」と仰せられた。そう、これらを見てすべてが最高だと思った。次に神達は自分達に似せて人を創った。これも完璧な出来栄えだった。又、人に仕事を与えた。地球の管理である。私達は地球を愛をもって正しく
管理しなければならない。そして、とても美しい自然を見て神に感謝することである。アーメン。」

2023年12月31日

創世記1:1~8(反省と感謝と期待)
1:1 初めに、神が天と地を創造した。1:2
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。1:3
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。1:4
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。1:5
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。1:6
神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。1:8
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。1:9
神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。1:10
神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。1:13 夕があり、朝があった。第三日。

「今日で今年(2023年)は終わる。どのような年だったか振り返ることも大事であろう。天の父なる神様は、まず天地万物を創られた。それに合わせて時間が創られた。そして「光あれ!」と言われ、光りを創り、昼と夜とを区別し、夕があり朝があった。これが一日のはじまりとなり、素晴らしい地球の活動のはじまりとなった。全宇宙の中で、生物や動物が生きて行く為に空気や水が与えられた唯一の地球の誕生となった。これらは全て全能の神の壮大な設計図の元で目的をもって創造されたのである。もちろん私たち一人一人も目的を持って創られた。ハレルヤ!だから、今年も反省と感謝を持ってしめくくり、迎える年も、イエス様と歩む素晴らしい人生を期待しようではないか。アーメン。」

2023年12月16日

マタイ1:10~14(イエスの誕生の真実)
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12
彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。
2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
ルカ2:39~41
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。

マタイとルカによるイエスの誕生の記述である。よく読めば二つの違いが分かるはずだ。つまり、時間差があると言うことだ。
マタイ2:14では、「そこでヨセフは立って、夜のうちにエジプトにのがれた。」と言う。一方、ルカ2:39では、「両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分達の町ナザレに帰って行った。」と言う。
博士たちは、馬小屋のイエスのところに来ていなかった。来ていたのは羊飼い達だけだったのだ。しかし、教会での降誕劇では、博士達も登場する。これは真実ではない。明確に時間差があるのだ。マタイのイエスはもう2歳くらいになっていた。今は多くの教会がそれに気付いている。ハレルヤ!

2023年12月9日

マタイ1:16~22(不思議なイエスの誕生劇)
1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

「イエス様の誕生が詳しく記されている。残念ながら期日は記されていない。だから本当の誕生日は今の時代、誰も知らない。しかし本当の事である。その証拠はマタイの書で系図が書かれている。マタイ1章1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」
つまり、聖書の系図に誤りは一つもない。全てが真実である。アバラハムは今から4千年前の人物である。アダムからアブラハムまでが2千年である。アブラハムからイエス・キリストまでが2千年である。イエス・キリストは今から約2千年前の出来事である。それらが系図によって明確に分かるのだ。今月は全世界でクリスマスのお祝いをする。人類に対する最大のプレゼントだ。
ハレルヤ!」

2023年12月3日

イザヤ11章1~9節 {救い主の誕生の預言}
11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。 11:3
この方は【主】を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。
11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。11:8
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

「預言は聖書の根幹である。イエスの
誕生も400年も前に示されていた。今日の聖書の箇所がそうである。預言とは神の計画を前もって示したものである。 つまり、あなたの将来に対しての神の計画を教えることなのだ。とても凄い事である。私達はみんな将来に対する夢や希望がある。それが実現することを信じて頑張って生きている。しかし実現するかどうか分からないのが現実だ。
けれども神の計画は必ず成る。あなたが預言を信じて、その預言通りに行動をすればのことだが…。しかし注意しなければならないこともある。預言はいつ成就するか分からないので軽く見ない方が良い。しっかり理解することである。イスラエルの指導者達はイエスの誕生を理解してなかった。」

2023年11月25日

黙示録20:1~6(千年王国来たれり)
20:1 また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。20:2
彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、
20:3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。
20:4 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。
20:5 残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

黙示録は非常に難解な書である。すべてが預言だからである。これから起ることを示しているのである。艱難な時代が終わって、千年王国が来ると言う。
それは最後の時が来る前の至福の時である。
①まず、19章で戦うキリストが描かれている。(19:11)②20章でサタンが千年間縛られ、底知れぬ穴に入れられる。③クリスチャンは甦ってキリストと共に王として治める。(20:4)④しばらくしてサタンが解き放たれる。⑤そして最後の戦いが起こる。⑥それからすべての人が甦る。イエスを信じないものも。⑦最後の審判が来て、サタンと彼を信じる者が底なしの穴に投げ込まれる。(20:10)ハレルヤ!

2023年11月18日

Ⅱテモテの手紙2:1~10
2:1 ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。2:2
多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。2:3
キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。
2:5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。2:6
労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。2:7
私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。
2:8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。
2:9
この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。 2:10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。

今日の聖書は5つの面白い場面がある。①キリスト・イエスと呼んでいる。しかもこの呼び名は何回も出て来る。(普通はイエス・キリストだが逆に呼んでいる。何故か?)②立派な兵士になれと。私達は兵隊なのか、何処の国の?③収穫にあずかれる。つまり報酬をもらいなさいと。給料をちゃんと頂きなさいと。牧師もちゃんと貰えるのだ。嬉しいね。アーメン。
④聖書は難解な所がある。しかし理解する力を与えると言う。ハレルヤ!
⑤神の言葉はつながれていない。つまり縛られない事を云う。誰もが止めることは出来ないと。だから大胆に伝道しよう。アーメン。

2023年11月11日

イザヤ書1:2~4
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
2:3 多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。 2:4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

世界は2つの戦争で右往左往している。ロシアとウクライナの戦争は1年半を過ぎたが終わる気配がない。イスラエルとパレスチナ(ハマス)との戦いも、いつ終わるのか誰もわからない。報道によると、多くの人間が死んでいっている。いや殺されたと言った方が良いだろう。これらの戦争の責任は誰に帰するのか。それぞれの国のトップが負うのか。それとも国連の事務総長か。または、それぞれの信じている神に責任があるのだろうか。
私がクリスチャンになる前、「神がいるなら何故に戦争を止めないのか?」と、伝道にしに来た方に聞いたことがある。彼女は私の問いに非常に戸惑っていた。あなたはその問いに何と答えるか。キリストが命をもかけて救ったユダヤ人が殺し合いをしている。何故に止めないのか。もしかすると寝ているのかも…。
「神の沈黙」という本に、「旧約聖書のマラキから新約聖書のマタイまでの400年間、神は沈黙した」と書かれてあった。都合が悪くなったら神は沈黙をするのだろうか?

2023年11月04日

申命記14章22~29「あなたキリスト者として楽しんでいるか」
14:22
あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。14:23 主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、【主】の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶためである。
14:24 もしあなたの神、【主】が御名を置くために選ばれる場所が遠くて、あなたの神、【主】に祝福していただくために運んで行くことができないほど、道のりが長いなら、14:25
あなたはそれを金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、【主】が選ばれる場所に行きなさい。
14:26 あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなた師でもの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。
14:27 あなたの町囲みの中にいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼は、あなたと同じようには相続地を割り当てられないからである。
14:28 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みの中に置いておかなければならない。
14:29 そうすれば、あなたと同じようには相続地を割り当てられないレビ人や、あなたの町囲みの中にいる寄留者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるであろう。それはあなたの神、【主】があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

今日の聖書のみ言葉はクリスチャンの生き方に気づきを与えるものであろう。①十分の一を捧げる人は必ず金持ちになれる。②何でも買いなさい。酒でも牛や羊も(笑)。③それで家族で楽しみなさい。④またレビ人(牧師・伝道師)をないがしろにしないで。⑤また寄留者や孤児、やもめを大事にしなさい。⑥主によって手の業が祝福される。アーメン。

2023年10月28日

61:1 【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 61:2 【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
61:3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる。
61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。 61:5
他国の人は立って、あなたがたの羊の群れを飼い、異国の民があなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。 61:6 しかし、あなたがたは【主】の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる。あなたがたは国々の財宝を味わい、彼らの富を誇る。
この章の御言葉は、私達を大いに慰め、希望を与えるものである。是非、暗唱聖句として捉えてほしい。一節は「神である主が私に油注がれた」とある。私達は皆油注がれた者だ。とっても凄いことではないか。これは必ず用いられるという約束だ。又、「心の傷ついた者を癒し、捕らわれ人を解放する為に遣わされ者である」ともある。あなたも、わたしも神に選ばれたのだ。これだけでは無い。祭司になり、国々の財宝を得、富が来るとの約束だ。信じたいものだ。ハレルヤ!

2023年10月22日

使徒の働き
3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて「私たちを見なさい」と言った。3:5
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

この聖書の箇所は私達に大きな希望を与える。ペテロとヨハネが教会に祈りに行った場面である。足の不自由な人が、教会の入り口に座って物乞いをしていた。彼の身の上にミラクルが起こった。彼の人生最大の良きことであった。彼は躍り上がって立ち上がり、飛び跳ねながら、喜びながら、神を賛美した。奇跡が起こったのだ。以後、彼はナイスな人生を歩むようになったのだ。本当に素敵な事ではないか。クリスチャンは彼のようなにエキサイトな出来事に遭遇する。アーメン。かならずしも体の癒しの体験だけではない。あなたもミラクルな体験(聖霊体験)
をするはずだ。使徒の時代は大昔で終わったわけではない。今も世界では起っているのだ。ハレルヤ!

2023年10月14日

詩篇92篇1~15節(何でも出来る神を信じているはずだが・・・)
92:1 【主】に感謝することは良いことです。いと高き方よあなたの御名をほめ歌うことは。92:2
朝にあなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。
92:3 十弦の琴に合わせ竪琴の妙なる調べにのせて。
92:4 【主】よあなたはあなたのなさったことで私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを私は喜び歌います。
92:5 【主】よあなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです。92:6 無思慮な者は知らず愚か者にはこれが分かりません。92:7 悪い者が青草のように萌え出で不法を行う者がみな花を咲かせてもそれは彼らが永久に滅ぼされるためです。
92:8 【主】よあなたは永遠にいと高き所におられます。
92:9 【主】よまことに今あなたの敵がまことに今あなたの敵が滅びます。不法を行う者はみな散らされます。
92:10 あなたは野牛の角のように私の角を高く上げ私にみずみずしい油を注がれました。92:11
私の目は私を待ち構えている者どもを眺め耳は私に向かい立つ悪人どものことを聞きます。92:12
正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの杉のように育ちます。92:13 彼らは【主】の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。
92:14 彼らは年老いてもなお実を実らせ青々と生い茂ります。
92:15 こうして告げます。「【主】は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」

この詩篇は信仰の秘訣を教えている。信仰の持ち方と言っても、各々考え方に違いがあるので秘訣とは言い難い。しかし、信仰は大事だ。何が信仰かというと答えは出しづらいが。ヒントは、聖書を50%くらい(笑)信じて行うことであろう。14節は「年老いてもなお実を実らせる」と教えている。「年老いて」とはいったい何歳くらいの事を言っているのか? ただ確かな事は、年寄りにも夢、希望がある。これが信仰の答えではないか。ハレルヤ!

2023年10月7日

Ⅰコリント15:1~10節{福音の三要素}
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。15:8
そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。15:9
私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

福音の三要素とは何か?と聞かれたら何と答えるか。伝道者パウロは何が大事か、と問うているのである。人生で最も大事な事は三つあると言っている。一番目はキリストが私達の罪の為に死んだこと。二番目が死んで墓に葬られたこと。三番目が甦られたことである。これが一番大事だと言うのである。確かにそうである。聖書はイエス・キリストの物語と言う。又はイスラエルの歴史とも言う。または神の言葉とも言う。これが真実だというのである。 アーメン。

2023年9月16日 今日の聖書

ヨハネ14:15~21(父の愛に感謝しよう)
14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。14:18
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。14:19
あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。14:20
その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

天に帰る日が近づいたことを知ったイエスは、弟子達に、「もう一人の助け主をお与えくださる」と言った。イエスも助け主であった。イエスだけで充分だと思うのだが、天の父は、もっと真理を教えたいが為に「真理のみ霊」を送ったのだ。このことを考えてみると、天の父はなんという素晴らしい愛の父だろう。天の父が直接私達に語られたのではない・・・。イエスを通してその愛を感じさせたのである。天の父はどうして私達人間をこれほどまでも愛してくれるのだろうか。「助け主の聖霊をねたむほどに慕っておられる。(ヤコブ4:5)又、私達を天に入れるために、独り子のイエスを十字架につけた父だ。生きている間その愛に応えたいものだ。アーメン。

2023年9月9日 今日の聖書

詩篇126篇1~6節
都上りの歌。
126:1 【主】がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。
126:2 そのとき私たちの口は笑いで満たされ私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき諸国の人々は言った。「【主】は彼らのために大いなることをなさった。」
126:3 【主】が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。
126:4 【主】主よ、ネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。
126:5 涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。
126:6 種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

神は常に私達(神の子ども達)に喜びを与えようとしている。聖書の中に旧約、新約を含めて「喜び」と言う言葉が数多く登場する。
喜び、喜ばしい、喜ばせる、喜び歌う、喜び叫ぶ、喜び楽しむ、喜べ(命令)、等々の言葉を数えたら、何と560回もあるのである。そして、イエスは神を喜べ、神の業を喜べ、神の癒しを喜べ、神の救いを喜べ、神の愛を喜べ、神の大いなる御手を喜べと命じる。神はイスラエルの復興を大いに喜んでいる。
これはクリスチャンの信仰を表している。私達の信仰が喜びの上に立っていることの証明である。また、4節の「ネゲブの流れのように」とは、砂漠の中にあるネゲブの村は雨期になると大きな流れとなった。祝福の流れである。
ネゲブは聖書に40回出て来るが、イスラエルにおいては、回復と祝福、喜びの代名詞になった。私達もネゲブの流れをつかんで、大いに喜びと感謝の信仰を証ししよう。アーメン。

2023年9月2日 今日の聖書

イザヤ53章1~7節
53:1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。
53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

今日の聖書箇所は「イザヤ53章」です。毎日読むように薦めている聖書箇所です。ここはイエス様がどのように十字架に架かったのかを詳しく教えています。何故に毎日読んでほしいかと言いますと、十字架の苦しみを想像することによって、「イエス様の愛」を理解出来るようになるからです。私達は日々新しくされ、成長していきます。できるだけ暗誦聖句として覚えて欲しいのです。
イエス様は十字架に架かる為にゴルゴダの丘に向かいます。その時のイエス様は、ムチ撃たれ、顔を殴られ、血だらけでした。そして重い十字架を担がされてフラフラに歩いていたのです。だから、見栄えもなく、輝きもなく、人々からさげすまれていたのです。十字架の意味を充分理解出来ることによって、この箇所が分かるようになります。ですから、毎日読んで少しずつ理解しましょう。「愛の人」になりましょう。アーメン。

2023年8月26日 今日の聖書

1コリント14:1~6
14:1
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
14:2 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。
14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
14:4 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。

Ⅰコリント13章をはさんで面白い終わり方(12章)と始め方(14章)を示している。12章の終わりに「Ⅰコリント12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」と結んでいる。12章は御霊の賜物について詳しく述べている。しかし、それよりも優れた道があると言っている。御霊の賜物を戴いて終わってはいけないと。13章に進みなさいと。13章はもちろん愛の章である。そこは衝撃的な教えばかりである。愛がなければ・・うるさいシンバルである(1節)。何の値打もないものとなる(2節)。何の役にも立たないものとなる(3節)。しかし、これで終わりではない。14章のはじめの1節は、「愛を追い求めよ」と強く命じているのである。私達の最大の目標は「愛を追い求める」ことである。アーメン。

2023年8月18日 今日の聖書

Ⅰコリント13章1~8節{何と言う愛でしょうか}
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

今日は今年の標語がテーマです。キリスト教のシンボルは愛です。愛には四つあります。アガペ-、フィリオ(友情)、エロス(肉の愛)、ストルゲー(親子の愛)です。その中でもキリストが教えるのはアガペ-の愛です。キリストが人間の罪を赦す為に十字架に架かった時の愛のことです。私達の罪を赦し、天の御父なる神と和解させた下さった愛です。イエスを救い主と信じるすべての人に無条件の愛を与えたのです。これが「天の御父」と「子なるキリスト」の愛です。このような愛を持つ人になりなさいと、イエス・キリストは十字架を手本として下さったのです。何という「愛」でしょうか。私はイエスに似る者になりたいと祈り続けています。自分を見て諦めざるを得ない時もありましたが・・ハレルヤ!

2023年7月29日 今日の聖書

箴言8章22~31節
8:22 【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
8:23 わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
8:24 まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
8:26 主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
8:27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、
8:28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、
8:29
海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、
8:30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。
8:31 主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

天地創造の経緯は創世記に詳しく書かれている。聖書の他の箇所でも要所に創造のみ業が登場するが、創世記だけに留めず、色々な作者がいる中で時代を超えた記述がある。つまり聖書は、神が人を使って書かせたとの証拠である。これが聖書の真骨頂であろうと思う。例えば詩篇19:1~3では、ダビデの賛歌として創造の記述がある。この箴言は、イエス様が創造のみ業に参加していたことを明確にしている。イエス様は、天地創造を大変な喜びを持って創られたと言っている。特に、天の父なる神様と仲よく創造したと告白している(27節)。父(神)と子(イエス)がどれだけ仲が良かったかを知ることが出来る。なんとほほえましいことか。また、イエス様は人間をつくる喜びを心から楽しんだともある。(31節)だから、私達人間を救う為に、あの恐ろしい十字架に登られたのだと理解できる。イエス様に感謝!感謝!アーメン。

2023年7月22日 今日の聖書

黙示録1:1~7節 {目を覚まして備えていよう}
1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

黙示録は終末における預言の書である。終末とは、イエス様が私達クリスチャンを雲に乗って迎えに来ることを示している。これを再臨と言う。一回目はマリアさんのお腹を借りて人間イエスとして来た。これがクリスマスになっている。再臨だから二回目があると言うことだ。その二回目が非常に重要であるのだが、この黙示録はとても難解な書である。元々預言の書は全部難しい。イザヤを始め、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル等々。特にエゼキエルを読み理解するには、相当の忍耐を持って読まなければならない。この黙示録もそうである。だから分かり易く
分解して理解しやすいように語りたい。乞うご期待である。アーメン。

2023年7月15日 今日の聖書

詩篇23:1~6節(信仰は決断と実行です)
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

一番人気がこの詩篇23篇だそうです。もちろん私も大好きです。
この23篇は私達に決断を教えます。そして口で告白するように促しています。1節は主への告白で、「あなたは私の飼い主です」と告白しています。ちょうど好きな人にプロポーズする時の信仰です。「あなたを一生愛します」また、「一生懸命に働いて幸せにします」と、すべての男性は、愛する方(女性)に誓いの言葉を口にします。これは私達が主を愛していることを表明し、全き信頼を告白しているのです。「だから乏しいことはありません」という御言葉は、「私はあなたがどのような神かを知っているし、あなたの力が絶対的であることも知っているから信頼しています。」と神様に告白しているのです。アーメン。

2023年7月8日 今日の聖書

詩篇122:1~9節 都上りの歌。ダビデによる
122:1 人々が私に、「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。
122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神、【主】の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。

この122篇は、私達がどのように祈ればいいのかを明確に教えている。
①主の家(教会)に行くことをとても喜んでいる。
②エルサレムのことが描かれている。それはエルサレムには大きな神殿が立っていたからである。ユダヤの民は神殿が最大の誇りであった。全世界からユダヤ人達が礼拝の為に集まった。それは感謝の礼拝であった。ハレルヤ!
③エルサレムの平和の為に祈れと神が命じておられる。そして尚且つ、繁栄があるようにと。又、兄弟友人達の平和の為にも祈れと命じておられる。
④主の家(教会)の繁栄の為に祈れとも。私達は平和(平安)の為に祈り続けることが主の御心なのだ。アーメン。

2023年7月2日 今日の聖書

マタイ5章1~12
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

有名な山上の垂訓です。マタイ5~7章は新約聖書の教えの基本中の基本です。特にこの箇所から2つのことを取り上げたい。
1つ目は5:9です。「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子どもよばれるからです。」これは、私達のクリスチャン人生の歩み方を明確に教えています。私達は怒りや憤りの中を歩みがちです。誰でも自分を見失うことに出会います。その時に、怒りを抑えることが出来るか。
2つ目は5:11~12です。11節「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」迫害を受け悪口や批判や注意された時に自分を抑えることが可能か。特にありもしない悪口を浴びせられる時にやり返すのを抑えることが出来るか。12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」アーメン。

2023年6月23日 今日の聖書

詩篇27篇4-6節
27:4 私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
27:6
今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、【主】に、ほめ歌を歌おう。
27:7 聞いてください。【主】よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と【主】よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

もし、主が一つの事を求めよと言われたら、あなたは何を求めるか。お金か、名誉か、財産か、長寿か、賜物か。ほぼ全員がいろいろあって迷うことだろう。ダビデはすごかった。彼は一つのことを願い求めた。それは「命の日の限り主の家に住むこと」だった。
早天礼拝を捧げてから、仕事や家に帰らなければならないのだが、なるべくはずっとそのまま教会に残って主と交わりを続けたいという思いが強い。
主の臨在があまりにも大きいから教会から立ち去るのがとても辛い時がある。
彼の子ソロモンも一つのことを願った。「知恵と知識とを私に授けてください(Ⅱ歴代誌1:10)」と。主はそれを喜んだ。(Ⅱ歴代誌1:11~12)

2023年6月18日 今日の聖書

ヨハネ5章19~23節 5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
5:20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
5:21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
5:23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

今日は「父の日」です。母の日に比べて何と寂しいことでしょう。何と可愛そうな「父達」でしょうか。でも一応は「父の日」となっていますので、祝福しお祝いして労をねぎらって下さい。
父の思い出は多くの方々が持っていると思います。良い思い出、悪い思い出と様々でしょう。天の父と肉の父がクリスチャンの世界には存在します。天の父は全てが素晴らしいです。しかし肉の父は自分の思いで子たちを教育します。これが大きな問題を引き起こします。是が非とも天の父の教育を中心に受けたいと思います。
天の父と子なるイエスとの関係は非常に素晴らしいもので、揺るぎのないものでした。完璧な信頼関係が構築されて、アガペーの愛で結ばれていたのです。 ハレルヤ!

2023年6月10日 今日の聖書

ヘブル書2章1~4節
2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、 2:3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。

聖書を頼みとしている方は、本当に幸いな人と言えるでしょう。アルゼンチンのリバイバルを体験しに行きました。73名でほとんどが牧師の皆さんでした。その時に「カルロス・アナコンデイア」と言うリバイバリストが、聖書の一字一句まで信じるのが真のクリスチャンだとメッセージをしました。聖書の凄さを語ったのです。
それ以来、私は聖書を猛勉強し牧師達のメッセージを真剣に聞くようにしました。「素晴らしい救い」のことを聞きもらすことがなく、ないがしろにしないようにと。そして人生の中に取り入れる様にしたのです。「救いの確信」はメッセージにあると思ったのです。今日もメッセージに期待しましょう。アーメン。

2023年6月3日 今日の聖書

詩篇37:1~8節
37:1 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 【主】に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。
37:4 【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 【主】の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

あなたに「怒りのタネ」がまかれて、芽を出し始めていないか。過去の不条理を思い出して腹を立ててはいないか。また、そんなはずではなかったと、自分の人生を振り返って誰かに怒ってはいないか。あるいは今現在の立場を受け入れることが出来なくて怒っていないか。すこし間をおいて考えて見よう。
これらの多くは「自分は正しい」と言う前提に立っていることを知っているだろうか。
聖書は「神の義」と「人の義」を教える。そして善を行え、誠実を養えと言う。最後に静まって、耐えて主を待てと。待ちきれないと損をすることになる。と思うのだが・・・

2023年5月28日 今日の聖書

箴言1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
1:2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、
1:3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、
1:4 わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。
1:5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。
1:6 これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。
1:7 【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。1:9
それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。

箴言は私達に人生の教訓を語る。もちろん神が与えたものだ。日本のことわざはすべてこの箴言から得ていると言ってもいいだろう。
特徴は、まず一番に「神を恐れよ」である。そして伝道者の書12:15にも「結局は主を恐れよ。」とある。次に「知恵を得よ、英知を得よ」と来る。三つ目は「知識を得よ」四つ目は「懲らしめ」となる。また「叱責」が数多く登場する。また反語として「悪しき者、あざける者、愚か者、怠け者」も出て来る。
私達クリスチャンにとっては、もの凄く痛い教訓ではないだろうか。教訓の通りに生きるために、毎日その日の箴言を読もうではないか。アーメン。

2023年5月21日 今日の聖書

今回から「牧師のつぶやき」の代わりに、タイトルが「今日の聖書」に変わり、聖書のみ言葉を送ります。
(今日の聖書)
詩篇63篇1~8節
63:1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
63:6 ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。
63:7 あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。
63:8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

*この箇所は、「ダビデがユダの荒野にいた時に」と冒頭にあるようにサウル王から逃げ回っている時に読んだ詩です。ダビデは、とっても苦しい時にも信仰が揺るぎませんでした。それは2節に確認できます。「こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」と詩っています。現実は、彼は渇いた地(ユダ)にいるのですが、信仰で聖所(教会)にいると告白して祈っているのです。なんと素晴らしい事ではありませんか。ハレルヤ!

2023年4月29日 牧師のつぶやき

聖書のどこが一番好きかと聞かれたら、あなたは何と答えるか?
聖書は怒り、悲しみ、喜びを素直に表すことが出来る唯一の書物である。天地創造(創世記1~2章)、人を創った神の悲しみ(創世記6:5~6)、奇跡(出エジプト記)、祝福と呪い(申命記27章)、古代からの歴史(ヨシュア記~歴代誌)、ダビデの祈り(Ⅰ歴代誌29:10~20)、怒り、悲しみ、喜びの心を正直に表す(詩篇全般)、諺(箴言)、イエスの歴史(四福音書)、教育と躾(手紙全般)、再臨の希望(Ⅱテサロニケ)、終末預言(黙示録)等々……と、人生を左右する様々な事柄が明確に書かれている。私達の人生の道を照らして道に迷うことなく導き、素晴らしく希望に満ちているのが聖書である。アーメン。
私は、66巻の聖書の中では詩篇が好きである。何故かと言うと、天の父なる神様に心を正直に語っている詩が多いからだ。(自分のいたらなさ、失敗、怒り、悔い改め、喜び、希望、夢…等々) 特に1:1~3は大好きだ。
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
3節の「その人は何をしても栄える」が心に力を与える。
また、103:5「あなたの若さは鷲のようにあたらしくなる」が好きだ。
いつまでも心と体の若さを保って主に仕えたい。最近は両足に1㎏の砂のバンドを付けて歩いている。健康の為に。アーメン。

2023年4月21日 牧師のつぶやき

コロナで中断していた聖書勉強会をやっと再スタートさせることができた。嬉しい限りである。聖書の勉強は必要だし、とても大事だ。クリスチャンは聖書に通じてなんぼである。聖書は絶対に正しく身につけなければならない。キリストの世界には数えきれないくらいの教えがあるし、いろいろな教団教派がある。もっと詳しく言えば、牧師の数ほどに教えがあるということだ。例えば「仏壇」にどう向き合えばいいのか?どう取り扱えばいいのか?この事一つとっても牧師の理解と教えは千差万別で、絶対的な教えというものは無いように思える。だが、聖書には「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものの父である神はただひとりです。(エペソ4:4~6)」とある。真理は一つ、教えも一つだと言っているのだ。とにかく、聖書は真理だから多くの教えがあってはならないのである。又、「悪い教えに惑わされるな!」とも言っているから気をつけなければならない。(ローマ16:17、Ⅱヨハネ1:6~11)私は自分を褒めるわけではないのだが、よく聖書を読み、勉強してきたと思っている。もちろん多くの霊的な書物にも投資してきた。イギリスの牧師ロイド・ジョーンズ著書「神はなぜ戦争をおゆるしになるのか」は今のこの時こそ読んでみるのもいい。同著者の「結婚の意味」「ローマ書講解」「リバイバル」は大好きな書物だ。又、中国の牧師ウォッチマン・ニー著書「アブラハム・イサク・ヤコブの神」「キリスト者の標準」「互いに愛したまえ」、C.S.ルイス著書「ナルニア国物語」等々、霊的に非常に参考になるものばかりだから、せめて一冊ずつ購入して読んでほしい。あなたの霊の目が開かれるはずだ。そして、勉強会に出席して、霊の世界をよく学んでほしいと願う。付け加えれば、「バジリア・シュリンク」「コーリー・テン・ブーム」「リック・ジョイナー」等の偉人たちの本もそろえた方がいいと思う。

2023年4月15日 牧師のつぶやき

人生で行き場を失うことを体験した方は少なからずいるだろう。私も体験したことがある。30歳の時に不祥事で失職した。家も家族も車も失った。すべて失いやけくそになって何もする気にならなかった。ブラブラの毎日だった。当然家賃が払えない。ある日、アパートの鍵が替えられて家の中に入れなかった。帰るところは実家しかなかった。しかし母は私が失職したことも離婚したことも知らない。辛い思いはさせたくない。考えても答えは出なかった。悩んだが、他に選択肢はなかった。那覇から糸満の実家まで泣きながら歩いて帰った。真夜中に着いたが母の顔を見ることが出来なかったので離れの小さな倉庫に入って寝た。しかし昼には母に見つかった。母は全てを察したのか何も聞かなかった。しばらく何もせずにそこで暮らした。それから奮起してカラオケの会社を興した。大成功したのだが、辛い体験をすっかり忘れて天狗になり、経営をしっかりせずにあえなく倒産。しかし今度はイエス様にすがった。その時も債権者の攻めに辛い思いはしたのだが、イエス様は助けて下さった。しかも未来を見せ、勇気も与えて下さった。そして色々な方々の愛と支えが与えられた。特に姉には物心両面でいつもどんな時にも支え守ってくれた。感謝しても感謝しきれないほどだ。また、愛する家内のたか子も色々と助けてくれた。イエス様は私のような罪に汚れている者をも愛して赦して下さった。だから今の私がある。そしてイエス様が備えた最高の道を歩ませてくれている。皆さんの中にも挫折や失敗を体験をした方はいるだろう。いや、今もその中に立っている方もいるだろう。しかしあなたが信じているイエス様は必ずあなたを悩みや苦しみから助け出して下さる。アーメン。
大好きな御言葉の箇所を紹介する。
「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩篇91:14~16)」

2023年4月8日 牧師のつぶやき

4月は色々と忙しい月である。入学や入社があり、行政や会社にとっては非常に大事な決算等々がある。過去を振り返り、新しい年度に向かう予算作りの大事な月なのである。私達の教会も新しい動きがある月になったようだ。
一番は愛する長尾牧師夫妻の旅立ちであろう。一緒に働けなくなったのは残念だが、新しくスタートすることも大事である。成功を祈りつつ送り出した。神の御手に導かれて良い働きが出来ることを期待している。
祈りはとても大事なことである。しかし、祈りは直ぐに聞かれるものと長年かかって聞かれるものとがある。特に病気の癒しの祈りにはそのことが表れる。祈った瞬間に癒されることもあるが、時間を要する祈りがあり、何回も祈ってから癒されることがある。私は約10年間、あることに関して、ほぼ毎日祈ったことがある。これは私が苦しみぬいた祈りだったので証しをする。ある日、非常にお世話になった方から、「アパートを購入したいのだが、反社の俺では銀行が融資しない。だから名義を貸してほしい。」と頼まれた。一億円の融資だ。もちろん良くないことは百も承知だ。しかし、私は彼に対して、恩、義理があった。大平の教会から立ち退かざるを得なかった時に、彼が宮城にある自分の建物を貸してくれたのだ。だから断れなかった。その後、だんだんと彼とのトラブルが増え出した。固定資産税や借入金の返済が遅れることが多々起こるようになってきたのだ。しまいには、私が立て替えて払うことが増えてきた。頭の痛い種だった。祈るしかなかった。毎月、支払日には喧嘩状態だった。銀行は名義貸しとは知らない。だから支払わざるを得なかった。そのアパートは首里の通り沿いだから、今の教会(南風原)に行く時には前を通る。だから通るたびに祈った。帰り道も祈った。ひたすら祈り続けた。そして、とうとう13年目にして名義が解消されたのだ。立て替えた分は恩義とし、請求はしなかった。完全に和解したのだ。ハレルヤ!祈りは聞かれる。
「忍耐のかぎりを尽して祈りなさい。(エペソ6:18)」アーメン。

2023年2月17日 牧師のつぶやき

トルコとシリヤで大地震が発生した。今日現在で4万1千人が死亡している。避難している方々は220万人を超えているそうだ。12年前の東日本大震災を上回る被害のようだ。震災は世界中のどこで起こっても不思議ではない。旧約聖書に載っているが、大昔から大洪水や大地震は起こっている。(アモス1:1)そして、これからも大地震や飢饉、疫病が起こるという預言もある。(ルカ21:11)その通りに災害は世界中で起こってきた。「台風」は沖縄のレッテルだったが、最近は多くの台風が本土の方に行って、川の氾濫による洪水等で大きな被害を与えている。アメリカではハリケーンが毎年発生し多くの死者も出ている。このように年々自然災害は私たち人間を苦しめている。この沖縄にも自然災害はいつ起きてもおかしくない。だから備えがとても大事だ。近々、教会に水と非常食を備蓄しようと思っている。日本は食料自給率が30%しかないそうだ。しかし本当は5~6%くらいだと言う学者もいる。例えばロシアとウクライナの戦争で一気に小麦粉等々の価格が跳ね上がった。しかも便乗値上げと思うのだが、すべての物価が上がりっぱなしだ。この地域戦争をもってしてもこのようなありさまだ。日本や沖縄の経済事情が非常に貧弱であることが分かる。いつ何時、食料危機が起こるか分からない。その為にも備えが必要であろう。教会のリーダーとしては安閑としてはおれない。だからこそヨセフみたいな政治家が求められる。また、私達も一人一人が危機意識を持って祈り続けることが大事だと思っている。今の日本の政治に期待は出来ないことは既に実証済である。自分の命は自分で守り、神の家族の命は牧師達や役員達が責任を持って守るしかないだろう。その教えはちゃんと創世記のヨセフ物語に記してある。だから素直に主の教えを実行しようではないか。主の計画がいかに綿密に計算され、完璧であるかを知って備えをしよう。 「神はあなたがたより先に、私を遣わし、命を救うようにして下さったのです。(創世記45:5)」

2023年2月3日 牧師のつぶやき

最近のビッグニュースは「ルフィ」のことだろう。特殊詐欺から強盗、ひいては殺人まで関わっている。彼らが集めたのが約65億円だと発表された。恐ろしいばかりの金額だ。ネットで「楽をして儲かろう」と呼びかけたら、多くの若者が引っ掛かったらしい。彼らの心には善悪を判断する物差しが入っていなかったはずだ。社会や家庭で子供達に教えることは、礼儀と物事の善し悪しだ。躾はとても大事である。優しく親切な人間になって、社会の一員として頑張ってほしいというのが親の願いであろう。
愛の章(Ⅰコリント13:4)には「愛は寛容であり、親切です。~」と宣言している。愛を行うということは、困っている人に対して親切にすること。
そう、「親切」こそが「愛」なのだ。また、13:5には「礼儀に反することをせず~」ともあるが、礼儀どころの話ではない。今やそれを通り越して、暴虐の世界ではないか。あおり運転や飲酒運転による死亡事故、通り魔の切りつけ事件、わいせつ、いじめ、DV…等々。挙げればきりがない。社会全般において善悪の基準が消えてしまったようだ。恐ろしいことである。ノアの時代に神は、人の考えることがみな悪に染まっていくので、人を造ったことを後悔し、すべての生き物を滅ぼすことにした。
「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(創世紀6:5~6)」
天の父なる神様にはとても辛い決断だったはずだ。何しろ自分に似せて作った人間達が善悪の判断を失っていたからだ。「両手で、こねてこねて丁寧に造ったのに……」と涙ながらに悔いたと思う。今の時代にそっくりではないだろうか。クリスチャンは聖書(神の言葉)を実行して、「愛」の見本、手本とならなければならない。願わくは、父なる神様が忍耐を持って待っていることに期待したい。アーメン。

2023年1月14日 牧師のつぶやき

今年は去年よりも良い年にしたいものだと強く思っている。その為にどうすればいいのか?考えて、考えて、出した結論は幾つかあって以下のとおりである。
1.祈りの時間を増やすこと。(リバイバルと霊的な戦いと信徒の祝福ために)
2.もっと聖書の勉強をすること。(御心を深く、深く知るために)
3.霊的な戦いをする時間を多く持つこと。(信徒の解放の祈りを丁寧にする)
この3つを軸に展開しようと思っている。その為には皆さんの協力が必要となる。特に解放の時には一緒に祈りに参加してほしい。この戦いの祈りは昨年の10月頃から目に見えて非常に良い結果を出してきている。厳しい戦いだが、キリストの兵士として戦い抜いて行きたい。もう一つの願いがある。私たちは多くの事業を展開している。それぞれのリーダー達が去年よりもしっかりと管理して私の手を借りることなく、良い結果を出してほしいということである。また、彼ら(責任者)の為にも皆で祈ってほしい。(週報にリーダーたちの名前が載っている)そして、メンバー全員がキリスト者として大きく成長し、大人になってと願う。
「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:16)」 去年から、健全に成長するためにと以下のセットを用意してある。既に皆さんが実行していることではあるが、今一度確認をしたい。ぜひ実行してほしい。何でもそうだが、物事は継続なくして手に入れることは出来ない。小さいことを粘り強くやり続けることである。これは世の中の先輩たちも聖書もそう教えている。3点セットは言うまでもなく①聖霊様に挨拶をする。②主の祈りを唱える。③今日の箴言の個所を朗読する。これに、後2点を加えて5点セットにしてほしい。④イザヤの53章全部を朗読する。⑤Ⅰコリント13章全部を朗読する。これは時間を作ってやることが大事だ。1日24時間のうち、8時間は働き、8時間は睡眠を取る。残りの8時間は食事や様々なことに使う。その中で、せめて1時間は主の為に時間を作ってほしい。これは誰もが出来ることである。そしてこの3点セット及び5点セットを毎日根気強くやると、あなたは必ず成長するだろう。アーメン。

2023年1月7日 牧師のつぶやき

正月休みに3年ぶりに名護市にある「嘉津宇岳」に登った。標高453mだ。結構頂上付近は岩だらけの所もあってきつい山ではある。しかし今回で3回目なので用意周到に準備した。まず杖を持ち、手袋も着けた。この2つは意外と助けとなる。そのおかげで楽々と登れる。また頂上で食べるために、おにぎりと飲み物を準備してワクワクしながら登った。登山の楽しみのひとつは、頂上から降りてくる方々に「こんにちは」、「お疲れさん」と声を掛け合うことである。なぜかすがすがしくなる。また不思議と連帯感を感じる。ある場所では岩をつかみながら登る。その時には手袋が役に立つ。杖は登るときにも降りるときにも非常に役に立つ。準備することは目的達成のために必要である。出発してから約1時間で登頂。頂上からは名護市はもちろんのこと、東西南北360度見渡せるからとても気持ちがいい。皆さんもぜひ一度は登って欲しいとお勧めする。岩に関して気づいたことが2つある。1つは人に踏みつけられてつるつるになっている石。もう1つは、尖っていたであろう岩が多くの人に掴まれて滑らかになって掴みやすい岩に変身していることである。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。(箴言27:17)」 今年の標語Ⅰコリント13章は愛の章である。この愛の13章で難しいものは4節の「寛容」だと思う。寛容とはどういうことか。人の態度や言葉を裁かず、否定せず、受け入れる広い心のことを言う。この「寛容」をマスターすることを今年の最大の目標にしたいと思っている。そして、次に目標とするのが5節の「苛立たず」である。私達は得てして自分の思い通りにいかない時に、心は穏やかになれずに苛立ってしまう。そしてそれが抑えきれない時に怒りに変わっていき、最悪な結果を生むことになる。わかってはいるのだが自分の感情を抑えることはなかなか至難の業だ。しかし、クリスチャンとして何度失敗しても、あきらめずに挑戦し続けようではないか。いつの日か聖霊の力が望み、あの嘉津宇岳の石や岩みたいにつるつるになることを期待して。アーメン。

2023年1月1日 牧師のつぶやき

新しい年がスタートした。私はとても期待を持って迎えている。なぜならいつもの年とは違う感覚を強く持っているからだ。つまりリバイバルが始まるという感覚である。ではリバイバルとは何かを詳しく書いてみようと思う。
まず、韓国では朝鮮戦争後すぐにリバイバルが起こった。一気に多くの人々がクリスチャンになった。そして多くの教会が誕生し、全人口の30%がクリスチャンになった。今でも韓国に行くと赤い十字架が町中、いたるところに見える。アメリカにおいてはフロリダのペンサコーラという港町でリバイバルが起こった。そのおかげで町中から犯罪が減って警察が暇になったという。カナダではトロントでリバイバルが起こった。25年間で380万人の方々が教会を訪れたそうだ。これらに共通するのが、癒し、悪霊解放、依存症からの回復等々が起こり、教会をはじめ、皆が聖霊に満たされたといった点である。今、台湾でそれが静かに起こりつつあるそうだ。既に多くの1000人教会が誕生している。台北市を見るとクリスチャン人口が10%に増えているそうだ。ちなみに沖縄のクリスチャン人口は約1%である。145万人の1%は14,500人だ。教会の数は約400だという。ということは一つの教会で36人の信徒がいることになる。新しいデータがないので大ざっぱで正確ではないのだが…。日本・沖縄では、これまで先輩達が祈り続け、種をまき続けてきた。今年がその刈り取りの時期ではないかと感じる。そう、リバイバルというのは一気にクリスチャンの数が増えることの意味である。当然教会も増える。メガチャーチも誕生するだろう。私たちの教会でもようやく芽が出始めたように感じる。癒しや悪霊追い出しが起こってきているからである。つまり聖霊が力強く働き始めてきているのだ。しかし、単に数が多ければいいというわけではないと思う。既にペンサコーラのリバイバルの火は消えた。韓国もクリスチャンが減る一方だそうだ。その理由はわからない。これらのことを教訓にし、たとえリバイバルが起こったとしても、うかつに喜ぶのではなく、リバイバルの火をたやさないように気をつけなくてはならない。ひとつ確かなことは、「愛に勝る働きはない」ということである。
愛がなければすべて無に等しい(Ⅰコリント13:1)

2022年12月23日 牧師のつぶやき

いよいよクリスマスだ。月日が経つのが早すぎる。あっと言う間の一年だった。今年も、切に願って期待したものを手にすることはなかった。それは何かというと、「リバイバル」である。沖縄に、教会に、家庭に、と祈り続けてきたのだが…。残念だが来年に期待するしかない。
来年の標語は「愛」がテーマだ。
「13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(コリント13:4~7)」
私がいつも自分自身のことで天の父にお願いすることは、「愛の人になりたい」である。このことはずっと何年も前から今に至るまで、変わらず必死に祈り続けている。とにかく「愛の人になりたい!」と叫んできた。胸を叩きながら、叫びながら、泣きながら祈り願い続けてきた。しかし、人はなかなか変われないものだとつくづくと思い知らされている。だからと言って降参するわけにはいかない。教会に掲げている十字架は「愛」のシンボルである。牧師にとって「愛の人」になることは神からの至上命令である。だからこそ何がなんでも「愛の人」にならなくてはならない。しかし自分の力では簡単になれるものではない。努力してもだめだと知ってもいる。時折、神の期待に沿うことのできない自分を見て失望するのである。だから神にすがるしかないのだ。聖霊様が働いてこそ愛の人になれるのだから。来年こそは神が必ず願いを成就させてくださると信じている。「愛の人」に変えられるように。それがリバイバルにつながることを。これこそが最大の希望だ。アーメン。
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さると言うことである。
そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞き入れてくださるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。(Ⅰヨハネ5:14-15)」

2022年12月16日 牧師のつぶやき

ここ数年、もどかしさが強くなっていることがある。聖書の中に「品格、品性、敬虔」という教えがある。それらを教会に当てはめるとどのようになるのか。昨今において、教会では世界中でもラフなスタイルで礼拝を捧げることが当たり前になっている。私はこれまで何度かこの件で悩み、自分なりに結論を出してきたのだが、そろそろ又、頭をもたげてきたようだ。新年を迎えるにあたり、この事に関して何らかの答えを出していきたいと思う。世の中からスーツと着物が次第に消えていくようで寂しくてたまらない気持である。「正装」という言葉も聞こえなくなっている。天地万物を創られた天の父なる神様を礼拝するのに簡単な考えでいいのだろうか。着やすいからといって楽な格好でいいのだろうか。数年前、アフリカのタンザニヤに行った際、有名なガジマ牧師の教会で礼拝を捧げた。教会といっても大きな広場での屋外礼拝で、屋根があるのは講壇を置いてある所だけであった。メッセンジャーをはじめ、私達も講壇に上って礼拝を捧げた。数万人が集まっていた。牧師達や賛美の奉仕者達は皆、正装だった。多くの会衆も民族衣装のようなさわやかな衣装で身を包み、意識的に礼拝を重んじているようでとても気持ちがよかったのを今でも覚えている。
一方、先進国と言われている国々がラフな姿で礼拝を捧げているのは滑稽だと思った。いつも人間中心の考えで物事を進めている。偉大な万物の支配者の神様を礼拝するのにラフな格好でいいのか。何もスーツを着てきなさいといっているのではない。沖縄では「かりゆし」は正装とされているから、私も「かりゆし」を着たりする。私が言いたいのは、礼拝を重んじて、普段よりも小奇麗な格好をして身なりを整え、身も心も引き締めて礼拝に臨んでほしいということである。
「困難が忍耐を、忍耐が品性を、品性が希望を生む。(ローマ5:3-5)」
アーメン。

2022年12月10日 牧師のつぶやき

先週、とんでもないことが起こった。エデンハウスに入居している2人が酒を飲んで酔っぱらい、教会の前のコンビニで万引きをし、しかも悪態をつき大声で騒いだのである。通報を受け、パトカー5台が来た。お店にはお客さんも入ることも出来ない状態であったらしく、大変な迷惑をかけてしまった。すぐさま、エデンハウスの佐藤正二寮長が彼らの引き受けに駆けつけ、コンビニにもキチンと謝罪してくれた。後から私も謝罪に行ったのだが、お店のオーナーは怒り心頭で、謝罪は受け入れないと断られてしまった。「あなた方がやっていることは素晴らしいことだが、管理が出来ていないからこのようになるのだ」と責められた。とにかく入店を一切禁止すると宣言され、同時に教会の移転をも強く迫ってきた。「周りに迷惑をかけるような教会はいらない」と。一番気をつけてきたことが起こってしまった。彼らにつまずきを与えたのである。悲しかった。辛かった。何も言い訳が出来なかった。ただただ頭を下げ続けるしかなかった。「えらく嫌われたもんだ」と、とても落ち込んだ。どうすればいいのか…。考えるのだがいい解決方法がない。酒を禁止しても簡単にはやめられないのはよく分かっている。エデンハウス同様、「朝日のあたる家」でも何年も同じ問題を抱えてきたが完全な解決方法はなかった。入居契約書に酒やたばこの禁止をいくらうたっても、あまり役に立たないのも分かっている。これまでも周りのコンビニには迷惑のかけっぱなしで、何度も何度も謝罪を繰り返してきた。「あなたの隣人を愛せよ(ルカ10:27)」が天の父なる神の命令だ。また、「神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言3:4)」ともある。神に好かれ、また人に好かれるようになれということだ。周りには出来るだけつまずきを与えまいとスタッフ一同頑張ってきたのだが…。しかし、この活動をやめるわけにはいかない。困っている方々を助けるのはクリスチャンの最大の使命なのだ。「 愛は寛容であり、愛は親切です。……(Ⅰコリント13:4)」今回の出来事は、天の父なる神様からのクリスマスプレゼントだと思う。愛の確認のためだ。解決方法は分かっている。そう、彼らの祝福を祈るのだ。周りの方々を愛するしかないのだ。愛し続けるしかないのだ。そしてイエス様にすがるのだ。イエス様に助けてもらうのだ。アーメン。

2022年12月2日 牧師のつぶやき

最近、ビブロス堂で色々な方々に出会う。不思議である。これがリバイバルの前兆なのかと思っているが、期待外れに終わったらがっかりするので手放しで喜べない。不信仰なのかなーと考えている。
まず、私の友人の設計士。彼とはよくコーヒを飲みながら仕事の話をするのだが、先日、初めて私の証しに耳を傾けてくれた。ハレルヤ!
次に、メシヤニックジューのデイビッド先生。彼に次のような質問をした。「第二次大戦において、たった4年間でナチスに600万人という膨大なユダヤ人がホロコーストされたが、神はなぜ助けてくれなかったのか。なぜ沈黙していたのか。神ご自身が選んだユダヤ人であり、とても可愛がっていた子供たちであったのに…」と。彼はこの質問に真摯に語ってくれた。続いて、生粋のユダヤ人が来た。彼に「どうしてクリスチャン(メシヤニックジュー)にならないの?」と聞いたら、「あなた方がユダヤ教になるのが当たり前だ。祝福の基はユダヤ人にある。」と言うではないか。確かに聖書はそう語っているからとても驚いた。しかし残念ながらメシヤのイエス・キリストを完全に否定していた。また、天久住職さんが知り合いの方々をよくビブロス堂に連れてくる。今日(12/2)は「倫理の会」の女性たち3名を連れてきたので楽しく伝道ができた。このように、ビブロス堂はとても良い交流の場であるから、皆さんも是非伝道に活用してほしい。ハレルヤ!
教会においては、先月から、礼拝と祈祷会の後、悪霊追い出しを実践している。とてもいい傾向だと思いつつ、感謝し、喜びながらサタンと戦っている。「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20)」
毎日祈っていることが成就してきたのかなと思っている。アーメン。

2022年11月25日 牧師のつぶやき

キリスト教言葉がある。「主、主人、僕、権威、異邦人、飢え渇く、祝福、恵み、安息日、復活、御国、律法、迫害、地の塩、世の光、取税人、神の義、世の中、裁く、へりくだり、仕える、求める、救われる、ゆだねる…等々」難しい言葉もあるのでしっかりと意味をつかまないといけない。例えば「救われる」とはどのような意味を持つか。私達クリスチャンはいつも平気で会話の中に入れている言葉だ。「飢え渇く」もなかなか説明に苦しむものだ。皆さんはどうだろうか。一番難解なものが「ゆだねる」ではないだろうか。悩みや問題が起こった時、周りの兄弟姉妹や牧師に相談すると必ず言われる言葉が「神様にゆだねなさい」であるのだが…。では、実際に相談している時に「ゆだねなさい」と言う言葉をかけられた時にどのように受け取り、どのように行動したらいいのか。しかも「信仰を持って神にゆだねなさい」と言われる。ここで、信仰が出てくる。ただでさえ「ゆだねる」をどうとらえるか大変なのに。「信仰」で締めくくられたらどうすればいいのか。おそらく非常に迷うのではないかと思う。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7 )」
この「ゆだねる」という言葉をちゃんと理解して使っているかは疑問だ。私が見るに、間違って使っている兄弟姉妹方が非常に多いからだ。クリスチャンのいい加減さが如実に表れていると思っている。人のことだからと簡単にアドバイスをするが、果たして自分にちゃんと適用出来ているかと考えてみたいものだ。当たり前だが、言葉は正確に意味を理解したうえで使わなければならないと常々思っている。その為には勉強は絶対に必要である。また、疑問があったら牧師や伝道師たちに勇気をもって聞かなければならない。信仰は聞くことから始まる。アーメン。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)」

2022年11月18日 牧師のつぶやき

詩篇6:1~10を読んでみると、いかに正直な祈りが聞かれるかを示している。人生はこの詩篇の作者ダビデが祈っている通りだと思う。クリスチャンであっても人生は疲れ果てる時がある。6節で「私は嘆きで疲れ果て……夜ごとに泣いている」と主に訴えている。確かに誰でも長い間解決されない悩みを抱えていると疲れ果てるだろう。それは大なり小なりあると思う。小さい疲れは良いとしても、大きな疲れに襲われる時が問題だ。しかもその悩みが長く続く時に疲れ果てることになる。なるべくは疲れ果てる前に解決したいものだ。ダビデは夜も眠れることなく泣き続けている。泣くことも時には良いと思っている。泣いて泣いて、泣き疲れると逆にスッキリする時があるそうだ。これはある専門家の話だが、彼は泣き続けたことで、しっかりと寝ることができたのだそうだ。私にはこのような体験はないが、中学生の時に「死」について考えすぎて眠れなくなった時があった。今から60年ぐらいの前のことだが、当時のことは不思議としっかりと覚えている。8節になると面白いことが起こる。「不法を行う者達(問題)よ、みな私から離れて行け!」と叫んでいる。つまり問題に対して命令を下している。このことは私達に大きなことを教えていると信じる。私はよく次のような祈りをする。命じる祈りである「問題よ、悩みよ、騒ぐな!騒ぐな!静まれ!静まれ!」と大きな声で命じるのである。この祈りは大きな勝利を与える。問題や悩みは生きている。放っておくと成長していく。段々と大きくなっていき、手に負えなくなる。だから小さい時に退治することにしている。早く解決するように「命じる」祈りをしている。そしてあわれみ深い天の父に「憐れんで下さい。あなたの憐みが必要です」と祈る。これがまた、天の父がよく聞いてくれるから祈りが楽しくなるのである。あなたも時々は命じる祈りをしてみたらいいと思う。アーメン。

2022年11月5日 牧師のつぶやき

ハレルヤ!とうとう11月に入った。まだあと2ヶ月残っているがあっという間の1年であったような気がする…。今年も色々あった。良いことずくめだったと言いたいところだがそういうわけにもいかない。ただ、しいて言うならば、主との交わりを最優先にし、午前中を祈りと聖書を読む時間に費やせたことは、とても良かったと思っている。この日課を続けることにより、それが段々と喜びになっていった。主との交わりはなんと素晴らしいことか。霊性が高まっていく体験をしている。「一つのことを私は主に願った。…私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。(詩篇27:4)」まさにその境地である。ずっと主と交わっていたい。仕事中毒の私にとっては、とても大きな変化である。(笑) さて、最近読んだ小説の話しをしよう。ある方から三浦綾子の小説「海嶺」をプレゼントされたので読んでみた。30年ぐらい前にも一度読んだことがあるが、ほとんど覚えていなかった。久しぶりに読んでみると、とてもおもしろい小説である。江戸末期に海難事故にあった7人の男達の実話である。鎖国時代の日本にとっては、いかなる理由があろうとも一度日本から出ると帰れない。つまり、入国できない法律が作られていたのである。この7人の男達は、イギリスやアメリカのクリスチャンの助けによって、5年ぶりに日本の港に着き、入国願いをするが受け入れてもらえず、とうとう家族とも会うことができなかった。「日本は祖国にあらず」という無念を残して、外国で生涯を終えたのである。「国とは何ぞや?」と問う大作である。幸いにして、彼ら7人は後にクリスチャンとして生きていく道が開けたということである。私達クリスチャンの祖国は天にある。この地は仮住まいである。「…地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。…しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。…(ヘブル11:13~16)この世でどんなつらい目に遭おうともクリスチャンは希望を失うことはない。天の国こそが本物の祖国であるからだ。だから地上のことで思いわずらいを持つことはやめにしたい。「御霊によって歩みなさい。~(ガラテヤ5:16)」 日々、聖霊様に助けていただいて、天の父との深い交わりを無上の喜びとして生きて行こうではないか。アーメン。

2022年10月21日 牧師のつぶやき

聖書の面白さを考えてみよう。私が聖書に最初に触れたのは今から33年前のことだ。最初に読み始めた箇所は確か詩篇だったと覚えている。詩篇を1篇から150篇まで一気に読んだ。その後に新約聖書に進んだ。読んでいくうちに聖書が段々と面白くなっていった。最初に感動したのがマタイ25:27だった。この箇所には「銀行」が出て来る。2000年前のイエスのたとえ話だ。当時、本当に銀行があったのだろうか。とても信じ難かった。日本銀行が設立されたのはわずか139年前の1883年である。比較してみてユダヤのすごさに驚くと同時に聖書のすごさに目ん玉が飛び出すほどであった。それからというもの、私は聖書が大好きになっていき、どんどん読みまくった。次に驚いたのが「入れ墨」についてである。「あなたがたは、死人のために自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入れ墨をしてはならない。(レビ記19:28 )」現代は入れ墨の時代である。男女を問わず世界中で入れ墨が大人気だ。特にスポーツ選手は入れ墨を入れるのがステータスになりつつある。しかし、約4000年前に、聖書は入れ墨を禁じている。ここでも感激した。聖書の教えには只々驚くばかりだ。又、もう一つある。「手すり(柵)」を義務付けている箇所がある。「 新しい家を建てるときは屋上に手すりを付けなさい。だれかがそこから落ちても、あなたの家が血の責任を負うことのないようにするためである。(申命記22:8)」聖書は大昔から「手すり(柵)を付けよ」と命じているからすごいと思う。今から60年ほど前、私が小中学生の頃には、ため池や自然に出来た池があちらこちらにあったが、手すり(柵)のあるものは一つもなかった。安全対策は皆無だったのである。このような箇所を見つけると、聖書を読むことが何にも増して面白くなっていき読まずにはいられなくなった。皆さんは聖書のどの箇所に感動しますか。読み続けていけば必ず忘れがたい聖句に出会うはずだ。是非とも日々聖書に親しんでほしいと願う次第である。アーメン。

2022年10月14日 牧師のつぶやき

救われる前の私は、自分の力と知恵で幸せ(祝福)を勝ち取ろうとした。とにかくお金持ちになることを目標にした。当然ながら社会はお金がすべてであったし、財産を多く得ることが成功のバロメーターだった。だから「人に負けてたまるか」と根性丸出しで一生懸命頑張って、いつもトップを目指していた。当時の私は沖縄でも名の通っていた会社に就職しており、目標はその会社の社長になることだった。朝の早い会社で、なんと7時出勤であった。毎日深夜まで飲み歩いていた私にとっては大変であった。しかし、なんとか頑張って、とんとん拍子に管理職にのし上がっていったのである。だが、残念なことに、訳あって退職することになり、夢は果たせなかった。その後は自分でカラオケの会社を始めた。これは当時の流行に乗って大成功した。金が唸るほど儲かり、外車を乗り回すほどであった。とにかく楽しくてしょうがなかった。しかし、諺にもあるように、あぶく銭は人を駄目にする。高慢ちきな天狗になり、無茶苦茶な金遣いが祟って、ついに会社は倒産してしまった。その時は、あまりにも負債が大きすぎて死のうかと思うほどに苦しんだ。その頃、あるクリスチャンの方の熱心な伝道によって教会の門をくぐり、イエス・キリストに出会ったのだ。それからは、私の人生が180度変わった。夜の街を飲み歩いていた生活から教会中心の生活になったのである。教会での聖書の学びによって、自分の罪の恐ろしさを知り、イエスというお方が私の身代わりに十字架にかかったことも知った。そして深い悔い改めへと導かれたのである。又、何度も何度も断食をした。人の為に祈ることも知った。病院に行って入院患者の為に手を置いて祈ったりして、とても充実した信仰生活を送るようになった。又、神様は私にすばらしい牧師やクリスチャンの先輩方にも出会わせてくださり、彼らからイエス・キリストについて多くのことを教えられた。私は素直に聞き入れ実行した。ルカ8:25「……いったいこの方はどういう方なのだろうか。」今の私は明確に答えられる。「何でも出来るお方だ。愛のお方だ。」と。アーメン。

2022年9月30日 牧師のつぶやき

もう10月に入る。楽しいクリスマスも目の前だ。時の過ぎるのがなんと速いことか。ついこの間新年を迎えたばかりなのに。いやはや参ってしまう。とにかく時間だけはどうしようもない。年を取るのは仕方がない。止めようにも止まらない。日本のことが心配だ。日本の政治家達の無能さに危機感を抱かざるを得ない。特に心配なのが少子化問題と認知症問題だ。生まれてくる子供達の数が毎年減り続けている。もしこのまま行けば、年寄りは増えて子供は減ることになる。では年寄りの方々は誰が面倒見るの?となるのだ。子ども達のいない社会は考えるだけで恐ろしくなる。今から50年前(1972年)に「恍惚の人」という映画が上映された。今で言う認知症になった年寄りの物語だ。妻を亡くし認知症が悪化した男性を描いた大作で、当時の社会に大きな衝撃を与えた。その13年後(1985年)に、又もや社会に話題を提起したのが「はないちもんめ」というドラマだった。(西郷輝彦と十朱幸代が主演)大学教授を引退した父親が認知症にかかり、家族に大きな負担を与えることになるというストーリーで、認知症の恐ろしさを多くの国民に知らしめた。しかし、これだけ社会に問題を投げかけたにもかかわらず、政治家達は何も手を打つことなく、のんのんと過ごしてきた。もう確実に「姥捨て山」は現実を帯びてきている。我が国では、「2025年には、65歳以上のうち5人に1人は認知症になる」という統計を発表した。あと3年だ。世の中は認知症だらけになる。考えただけで恐ろしくなる。このような認知症や少子化に対して、対策を立てられない政治家達がこの国の舵を取っている。だから、「この国に未来はない」と言っても過言ではないと思う。少子化の危機は、1970年に開催された大阪万博の時から叫ばれ、警鐘を鳴らしていた。聖書には健康で長生きして神の働きをする方々が登場する。アブラハムやモーセである。彼らは超健康で長生きした。聖書は言う。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。(詩篇 92:14)」「彼ら」とは私達クリスチャン(神の子達)のことである。この御言葉は、絶望の中に希望を与えてくれる。アーメン。

2022年9月23日 牧師のつぶやき

今、アジアの国々の教会が大きく成長しているそうだ。御存知のように韓国は大型教会(数万人教会)が数多くある。1000人教会は小さすぎて自慢にもならないと言われているそうだ。しかし、今は成長が完全に止まっているとのことだ。逆にクリスチャンが減りつつあるとの情報もある。韓国の社会は完全に競争社会であり学歴社会だ。有名大学に行かなければお先真っ暗だと言われている。先進国の中では一番の高自殺率だ。クリスチャンの比率が30%を超えているそうだが、教会も競争社会の仲間に入ったので、クリスチャン同士の競争も激化しているらしい。
「競争心」には2つの大きな意味がある。良い面と悪い面だ。
①良い面:競争心は互いを高め合うことになる。「切磋琢磨」とも言うが、これがなければ進歩はないし向上心も生まれない。夢を持つこともなくなる。今の若者達の立つ位置がそうだと思う。すべて、「まあ、いいさー」で片付ける。向上心は支え合う事にもつながるし、アガペーの愛にも発展していく。パウロがマルコを受け入れたように。クリスチャンの世界はそうであってほしい。
②悪い面:競争心は悪を生み出していく。負けず嫌いの方はよく気をつけてほしい。これは妬み、嘘、犯罪を生み出していく。聖書は何度も警告を発し、注意を促す。競争心は高ぶりにつながることがある。能力満載の方は天に上りやすくなる。ルシファーは賛美リーダーで非常に美しい天使長だった。しかし、自分の能力と美しさのゆえに高ぶってしまった。
「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6 )」
才能は良い物だ。しかし、「才能は神が与えてくれたもの」という信仰がなければ、その才能はないほうが良い。「神は高ぶる者と敵対する」と言われる。競争に勝つと高ぶりが来ることを知っておこう。才能は人の為に用い、与えてくれた神に感謝することを忘れないことだ。なるべくは過度な競争はしないほうが良い。ただし、神の与えたもう競争は走り続けなければならない。
「このように、数えきれないほどの多くの証人たちが、競技場の観覧席で私たちを見つめているのです。だから、うしろへ引き戻そうとする力や、まとわりつく罪をふり捨てて、神の用意された競争を忍耐をもって走りぬこうではありませんか。(へブル12:1)」

2022年9月9日 牧師のつぶやき

又、台風が発生した。先週の祈り会では「台風の霊をやっつける」メッセージをしたばかりだ。私はいつも通りにやっつけてやろうと思っていた。しかし、何名かの方々が台風対策の事とアーサー先生達の心配をして話しかけてきた。
「台風、大丈夫ですかね-」と。私はあきれてものが言えなかった。このような方々にどのように接すればいいのだろうか。今回も台風が起きるだろうと予想はしていた。大きな選挙になると天候が崩れることは今までに何度も起きてきたからだ。サタンは自民党、公明党の味方だ。彼らは組織票を持っている。彼等を支持する方々は、台風が来ようが大雨になろうが関係なく何が何でも投票に行く。だから今まで勝利を収めて来たのだ。しかし野党に協力的な組織は弱くて薄いので天候に左右されやすい。浮動票も同じである。悪天候だと投票率が下がる。だから50%台の投票率になると与党が勝利するのである。今回も私の信仰に気合が入った。戦闘モードのスイッチが入り、知事選挙とアーサー先生、ローレンさんの為にも、サタンに邪魔されないように必死で祈ったのだ。結果、大勝利した。ハレルヤ!!
(詩篇107:29)「主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。」
(マタイ8:26)「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。」我らの神は大自然をも支配される大いなるお方である。 問題が起こったらあなたはどうするか?世の人のように右往左往するか。イエスは信仰をもって戦えと教える。その信仰は私達の希望を保証すると言う。
だから確信をもつべきだ。
「さて、信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)」
神は素晴らしい約束をしてくれている。素晴らしい最高のプレゼントではないか。アーメン。

2022年9月2日 牧師のつぶやき

久しぶりに大型台風が接近してきた。超大型な為に県民が大きく振り回された。特に選挙運動の真っ最中での台風対策は大変だっただろう。気象庁と行政は早くから県民に避難を呼びかけた。ビブロス堂から「今日は台風のため午後5時にお店を閉めることにした」と報告が入った。私は決断するには早すぎるのでは?終業時まであと3時間あるのに…、と思った。
私は台風の情報が入った時にすぐに祈った。「台風は来るな!台風の霊を打ち砕く!!……」と。何度も何度も祈り続け、ついに「台風は来ない」という確信を得た。だから周りの方々には「台風は来ないよ」と宣言し続けた。信仰を持って家族にも言い続けていたのだ。私達の神様は自然をも治める神様だ。自然も言うことを聞くのだ。ハレルヤ!
「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。(マルコ4:39)」
信仰でこの自然と戦う時もある。時に聞かれないこともあるのだが…。しかし勝つことが多いのも事実だ。大事なのは常に戦うことだ。アーメン。
信仰はとても大事だと思っている。信仰がなければ神を喜ばすことは出来ない。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」
正にそうだ思う。イエス様は何度も言っている。
「そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』(マルコ5:34)」(マタイ9:22、ルカ7:50、8:48、17:19、…等々)」
せっかくイエス様を信じてクリスチャンになったのだから、信仰の如くに進んで行こうではないか。そして何度も何度も祈りで挑戦しよう。いつの日か勝利する秘訣を得るだろう。イエス様は何でも出来る神様ではありませんか。そのイエス様は私達を用いて神の栄光を顕しておられる。ハレルヤ。アーメン。

2022年8月26日 牧師のつぶやき

朝の日課を変えてから3か月が経った。毎朝4:30に家を出て教会へ。5時前から会堂で祈り始める。6:00~7:00まで兄弟姉妹達と共に早天祈祷会。その後も引き続き会堂に残り、10:00まで神様との交わりの時間を過ごしていたが、最近になって11:30まで延長することにした。その理由は、7:30頃になると方々から電話がかかってきて、仕事の指示や今日のスケジュールの確認をしなければならない為、祈りが中断するからである。私は出来るだけ多くの時間を祈りに費やしたい。
「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(詩篇84:4)」
この詩篇の作者のように、一日中教会に居て、聖書を読んだり、祈ったりして神様をほめたたえていたい。転がって天井を見上げたりしてくつろいでいたい。22年前、教会をスタートした頃はそのようにしていた。だが、あの頃と比べて今の方が断然、神様と非常に濃い交わりができているように思う。だからとても気持ちが良いし、さわやかである。「なんと幸いなことでしょう」と言っている作者の気持ちが良く分かる。とにかく嬉しいのだ。「まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。(詩篇84:10)」一日中このようにできたら…と思うのだが、現実はそうはいかない。やることが多すぎて、午後からは仕事に励まなければならない。スタッフに声をかけたり、励ましたり、時には叱ったりする。だから今頃になって、色々な事業をやり過ぎたことをとても後悔している。(前々から家内には「牧会に専念した方がいいよ」と言われていた。)しかし、沖縄のリバイバルの為には準備が必要であると思っている。
「あなたの神に会う備えをせよ。(アモス4:12)」
私の頭の中はいつも考え事でいっぱいだ。考えることは楽しくて好きなので、いつまでも考える。時には考えすぎて頭がパンクしそうになることもあるが…。
何はともあれ、日々、神様に心身共に守られているから感謝である。
さあ!今週もリバイバルは間近であることを信じて、神様と共に歩んで行こう。アーメン。

2022年8月19日 牧師のつぶやき

人間にとって大事な事は色々あるだろうが、最も大事な事は「へりくだること」であろう。聖書がそう教えている。「それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。(ミカ書6:8)」
聖書は様々な箇所で何度も何度もそう教えている。しかし、世の中にはなんと高慢な人が多いことか。当然、聖書を読んでいるクリスチャンでも高慢な人は沢山いる。どうして聖書を愛読しながら「へりくだること」が出来ないのだろうか。一昨日、知り合いの那覇市会議員からある事を耳にした。私達の一番身近にいる那覇市会議員の中にも統一教会と関係を持った方がいるとの事だ。 多くの国民を洗脳し、だまして、財産までも奪ってきた統一教会と手を組むとは呆れてものが言えない。今の日本の政治家達は完全に狂っている。もちろん皆がそうではないが、特に自民党の中には多い。マスコミはやっと自民党と恐ろしいカルト集団の「統一教会」とが結びついているという真実の報道をし始めている。多くの自民党の議員達が、彼らの力を借りて選挙戦に勝利したことが判明した。マスコミから質問される際、幹部達は統一教会との関係をひた隠しにしていたが、後でつじつまが合わなくなって嘘がばれてしまい、記者達に突っ込まれるという始末だ。自民党の議員達ほど嘘つきの政治家はいないだろう。長年、平気で嘘をついてきたし、今も相変わらず嘘をつき通している。残念なことに、安倍さんも「超」がつくほどの嘘つきであった。「森友学園問題」、「加計学園問題」、「桜を見る会の問題」…等々、挙げればきりがないくらいだ。こんな首相は過去に例がなかった。今回、やっと嘘をつく理由が分かった。
彼の祖父の時代から安倍家は統一教会と関係があったのだ。統一教会はサタンに用いられているから当然、神と共に歩んではいない。聖書は言う。
「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ 8:44)」
嘘を捨て去る時にあなたは自由になれる。我らはへりくだって真の神と共に歩み、真理の道を突き進んでいこうではないか。アーメン。

2022年8月12日 牧師のつぶやき

今から63年前(1959年6月30日)の朝、アメリカ軍のジェット機が石川市の宮森小学校に墜落した。死者18人(うち子供11人)を出した大事故だった。その時に同小学校の2年生だったのが、本日のメッセンジャー、平良嘉男先生である。どのような話しをするのか大変興味がある。アメリカ軍の基地があるが故の大事故だ。当事者にすれば居たたまれない事であろう。あれから75年たった今も、あの時と何ら変わらないどころか、残念なことに、さらに新たなる大規模な基地を辺野古に造っている現状だ。
先日、親子で「島守の塔」という映画を見てきた。沖縄戦中の最後の知事である「島田叡」の物語である。島田知事が軍部と住民の避難についての意見を戦わす場面は迫力があった。戦争の場面がリアルで事実を明確にあらわしていた。日本国民が見事に洗脳され、沖縄県民は何の疑いもなく「鬼畜米英」と教え込まされ、学生達も御国の為にと日々の学業が止められ、否応なく戦争のための準備が進められていった。戦争は残酷なものである。彼らは国の教えを信じて、必ず「神風が吹く」と戦争に加担してくのだが、最後は命を捨てる羽目になる。この映画は県民全体が見るべきだと思った。いや、絶対に見て欲しい。特に、20代~30代の若者達は見て欲しい。そして戦争の悲惨さを学び、政治を良く考えて欲しい。政治家達がしっかりしないと戦争はいつか又起こる。ロシアとウクライナみたいに何百万の国民が被害を受けることになる。この責任は政治家達にあるのではなく彼等を選んだ国民にあることを忘れないでほしい。映画館で私の隣に年配のがたいの良い男性が座っていた。画面に「アッツ島の6500人玉砕」、「硫黄島23000人玉砕」と出ると、うめき声を出していた。又、悲惨な場面になると声に出して泣き出した。びっくりしたが、つられて私も涙が出て仕方なかった。基地は要らない。戦争は絶対にやってはならない。是非、皆が見て欲しい映画だ。

2022年8月5日 牧師のつぶやき

先日、ある姉妹から非常に面白い本を頂いた。それには8巻に及ぶCD(朗読)も付いていた。まずCDを聞くことにした。私は信仰書を色々な方から頂くし、ビブロスで買いもする。又、月刊誌は3冊も取っている。クリスチャン新聞、一般の新聞(タイムス、新報)も読む。もちろん聖書は毎日読む。よくも頭がパンクしないものだなーと我ながら感心する。送られて来た本は「どろがめ」というタイトルの小説だった。奇妙なタイトルだなと思いながらCDを聞き始めた。
CDの声は一人芝居をやっているように上手いので直ぐに引き込まれていった。
主人公「亀松」はもの凄い信仰のかたまりの人だ。愛とは…、教会とは…、牧師とは…、と色々考えさせられただけでなく、信仰の面ではとてつもなくショッキングなものとなった。戦前の特高による逮捕と、死ぬまで天皇を拝むようにと強制する暴力が凄まじい。又、アメリカ軍による空襲があまりにもリアルすぎて毛が立ってくるようだった。聞いているうちに戦争の恐ろしさに怒りが込み上がってきた。主人公「どろがめ」の人生は波乱万丈である。字も読めない無学の人が、キリストを信じることによって、晩年は最高の人生を送るようになる。市会議員にまで用いられていくのだ。皆さんにこの本を薦めたいと思っているのだが、残念なことに、この本は絶版になっている。CDは?となると、1人あたり8枚も焼かなければならないから凄く大変な仕事だ。しかし時間をかけてでも準備したいと思っている。「 わたしが、あなたの神、【主】である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)」「大きく口を開けよ!」の意味を理解するのは難しいところだ。しかしこのCDを聞いてやっと意味が理解出来た。「どろがめ」はいつも主の前に大きな口を開けていたのだ。私も大ぼら吹きだが、これまで以上に、もっともっと大きい口を開けることにする。(笑)ハレルヤ!

2022年7月29日 牧師のつぶやき

「天国の話」をあなたが信じるか信じないか勝手ではあるが…、ブルース・ウィルキンソンの著書「ヤベツの祈り」の中に、ジョーンズという人が死んで天国へ行く話がある。ペテロが天国の門で待ち構えていて、彼を天国へと案内してくれた。黄金の通りや美しい家々、天使達の合唱…等々、ペテロが見せる様々な素晴らしいものに圧倒された。彼はそれらのものに紛れて、妙な建物があることに気づいた。それは窓もなく、ドアが一つだけの巨大な倉庫のようなものだ。彼が「中を見せてほしい」と頼んだが、ペテロは「中は見ない方が良いよ」と言って見せてくれず、別の所を色々案内した。だが、彼はなぜかあの倉庫が気になり、再度、頼んだので、ペテロは仕方なく扉を開けて中に入れてくれた。そこで彼が目にしたのは、おびただしい数の棚である。その棚には、数々の赤いリボンで結ばれた白い箱が置かれていた。その箱にはそれぞれ名前が書いてあった。ジョーンズは「私のもありますか?」と聞くと、ペテロは「あるよ」と答えた。彼は自分の名前が書いてある箱を探し出し、赤いリボンを外して箱のふたを開けた。中をのぞいた彼はすぐにそれが何であるかが分かった。そして溜息をついた。それはペテロが今までに何度も聞いてきた類の溜息であった。ジョーンズの箱の中に入っていた物は、彼が地上で生きて行く為に神が与えようと願っておられたすべての祝福だった。でも、ジョーズはそれらを求めず、又、祈らなかったので、与えられないままになっていたのである。
「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」
「あなたがたの物にならないのは、あなた方が願わなかったからです。(ヤコブ4:2)」
神の恩恵には制限がありません。しかし、もしあなたが求めなかったのなら、受けるはずだった祝福を受け損なうことになるのである。神の本質は祝福することで、私達が地上で幸せに生きることを願っておられる。自分の為に、又、人の為に祈ることはとても大切なことである。つまり、「祈りに勝る人生はない」ということである。祈って、祈って、自分も幸せになり、人も幸せにする最高の人生を歩もうではないか。
「主はあわれみ深く情け深い。怒るに遅く恵み豊かである。(詩篇103:8)」

2022年6月17日 牧師のつぶやき

聖書は、「クリスチャンには祝福がつきもの」と教えている。つまり、当たり前と言うのである。本当にそう思う。今の自分を見ればうなずける。もし私がクリスチャンになっていなければ、今頃どんな人生を送っていただろうか。この「つぶやき」を書きながら考えてみた。「もしあの時ああしていたら…」の場合だが、おそらく、絶対に良い人生を歩んでなかったはずだ。私は50歳までには成功して、ヨットを買って海を中心に遊び、気ままな人生を送ろうと決めていた。又、1億円を定期預金にして利息で生活をする計画だった。当時は定期預金の利息が年6%あった。だから年間600万円は収入が入るのである。アパートを3つほど建てて、優雅な生活を送ろうという夢も見ていた。「人の物は自分の物、自分の物は自分の物」と言う哲学を持って生きていた。(笑)欲の塊だったのである。取り立て業もやった。あくどい金融業もやった。県内大手のクレジット会社にも勤めた。カラオケの会社も興し、カラオケのリース販売をした。又、カラオケボックスも、泡瀬の1号店を皮切りに、次々と、コザ、北谷、浦添、那覇(2ヶ所)、糸満とオープンさせた。当時のカラオケブームに乗り、大成功をつかんで非常に順風満帆な人生だった。しかし、40歳に大転機が訪れた。クリスチャンになったのである。そのことは、夢にも見たこともなく、考えたこともない晴天の霹靂だった。しかし、まぎれもなく正真正銘にクリスチャンになって人生が大逆転したのだ。十字架によって自分自身の罪を知り、悔い改めて、罪赦され、自由を体験した。最高の出来事だった。今、すべて満たされ、祝福され、最高の人生を謳歌している。その秘訣は、ドライクリーニングの白洋舎の創業者である五十嵐健治氏の「十分の一の信仰」を学んだからである。彼に教わった通りに、徹底して十分の一献金を献げ尽した。だから今の私がある。ハレルヤ!!あなたも私を真似て欲しい。きっと、同じように神の祝福が注がれるだろう。アーメン。
創世記28:22「石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

2022年6月11日 牧師のつぶやき

聖書は預言の書と言われている。イエス様も預言者である。又、旧約聖書では、イザヤをはじめ、様々な預言者が誕生している。
イザヤ 7:14 (それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。)
これは、イザヤによるイエス様の誕生の預言で、生まれる700年前に預言をしている。本当に気の遠くなるような話だ。イエス様の誕生の預言はイザヤだけではない。エレミヤ、ゼカリヤも預言している。
又、非常に現実的な預言もある。
創世記18:10 (すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。)
99歳の年寄りになっていたアブラハムには信じ難い事ではあったが、信じた。そしてその通りになってイサクが生まれた。あなたはこの預言を信じられるだろうか。これらを読んでいくと、預言がいかに大事な事かが分かるはずだ。
モーセにも預言が与えられた。
出エジプト記 3:10(今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。)
神は、モーセに預言をして神の御心を示した。モーセは自分勝手な道を歩んでいたのだ。しかし、モーセの人生には神様のご計画があった。それは、最高の働き、最高の人生だ。もし彼が従わなかったなら、彼は一介の羊飼いで終わった事だろう。だが、従ったお蔭で、神の素晴らしい業を何度も行った。又、神の顔も見ることができたし、壮健で長生きも出来た。ハレルヤ!
イエス様は弟子達にも預言をした。
マタ 4:19 (イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」) 
彼等も、漁師から人の魂を救う偉大な伝道者になった。最高の仕事が与えられて、最高の人生を歩んだ。あなたは自分勝手な道を歩んでいないか?
7月にはジョシュ・モヨ牧師が来られる。彼も預言者だ。是非、全員預言を受けてほしい。そして、アブラハム、モーセ、12弟子達のように最高の人生を送ろうではないか。アーメン。

2022年6月3日 牧師のつぶやき

先日、眼科に行った。逃げ出したくなるほど長時間待たされた。携帯アプリの聖書を読みながら待っていたが、一向に名前が呼ばれない。仕方なくTVを見ていたら、樹齢800年の大木がある神社の画面が出た。TVリポーターが神主さんに、その大木のことを聞いていた。神主さん曰く、多くの人々がその大木から力をもらいに来るのだそうだ。800年という長い年月、風雨に耐えながら生きてきたから、力があるので、人は木に触って「あやかる」のだそうだ。又、その大木には癒しの力があり、どんな病気も治すらしい。リポーターの女性は猫背なので、「背中をその大木にこすったら直る」と言われたので、一生懸命に背中を木にこすり付けていた。日本人は非常に信仰心が熱いと思うが、考えてみるのが苦手なのかもしれない。平気で木や石を拝むし、偶像の神々を作るのが非常に得意だ。 使徒17:16
「さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。」 正にこの日本、沖縄のことを指している。私はいつも、仏壇や寺(護国寺や波上宮)、拝所等の「偶像の館」を見る度に怒りを覚える。どうしてこんな力がないものを拝めるのか。人間が作った神々に平気で頭を下げるのだろうか…。
その怒りは時々天の父に向けられる。私は、自分の太ももを打ちたたきながら、怒りを持って祈っている。何故神は、日本、沖縄にリバイバルを起こさないのか?と。今日は「ペンテコステの日」だ。使徒の働き2章では、多くの弟子達が、朝早くから必死に祈っていた。今でいう早天祈祷会だ。その時突然、天から弟子達の頭の上に火が降ってきた。すると、彼らは異言(多国語)で話し出した。とても異様な光景だったであろう。 使徒2:12~13
「 人々はみな驚き当惑して、『いったい、これはどうしたことか』と言い合った。だが、『彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者たちもいた。」
その後、彼らは力を帯びて伝道に向かった。至る所で癒しを行い、悪霊を追い出して町中を騒がしたのだ。そして、多くの実を結んでいった。又、ペテロがメッセージをしたら、一気に3000人が救われた。ハレルヤ!これが神の御業である。だから、皆も私と共に、「聖書の通りに早くリバイバルを起こして!!」と、怒りを持って祈ろうではないか。

2022年5月20日 牧師のつぶやき

最近は世界の悪いニュースばかりが報道されている。日本も沖縄も例外ではない。人間は悲劇を見たがるから悪いニュースに人気が集まる。視聴率を気にするマスコミが取り上げるのも致し方ない。それにしても、事故、事件、戦争は増えるばかりだ。地震や津波、火事等々も起こりうるとの前提に立たなければならない。だから備えることが一番だろう。車の燃料はいつも満タンにし、家には防災用品を備えておくことだ。我が家にはそれらが常備されている。懐中電灯、トイレットペーパー、万能ナイフ、飲料水、紐、洗濯バサミ、非常用ラジオ……等々だ。私の車にも非常用カバンを入れてある。災害の中にあっても幸せを掴める秘訣は「備える」ことである。
聖書には、神様が私達を幸せにしたいと願っている御言葉がある。
「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。(エレミヤ 24:6 )」
神様は、私達を幸せにするためにイエスを十字架にかけて下さった。私達の罪を赦し、神と和解させ、幸せにする為に、可愛い、可愛いひとり子イエスを人間に与えたのである。このことが「天の父なる神様は愛の神様である」という証拠である。そのおかげで、私達は神様の子供となり、神様を「天の父」と呼べるようになった。当然、父なる神様は子供達を幸せにしようとする。だから、私達は幸せになるべきである。私も家内も、子供達の幸せを強烈に願っている。だから常に祈りを絶やすことはない。もちろん、霊の家族である信徒の皆様のことも、幸せになるようにと一生懸命に祈っている。
世の中は混沌としている。コロナはまだまだ収束しそうもない。今は、何が本当で何が嘘なのか、なかなか分からない時代である。だからこそ、私たちは聖書を読み、勉強しなければならないのだ。まだまだ、この世の中を生きて行かなければならないのだから…。真理を知り、学び、子や孫達に教えてと行くことが私達の責務なのではないか。
「いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと 日数(ひかず)の多いこと(長寿)を愛する人は。(詩篇34:12)」

2022年5月14日 牧師のつぶやき

久しぶりに「マザーテレサ物語」をDVDで見た。入江兄弟が貸してくれたものだ。彼はいろいろなキリスト教関係のDVDを持っていて、時々「これを見て下さい」と薦めてくれる。無料で見ることが出来て非常に感謝している。
マザーテレサは世界的に超有名な方だ。クリスチャンで知らない人はいないだろう。
これまでも何度かDVDを見てきたが、改めてマザーテレサは偉大な人だと思った。彼女の働きは普通の人には出来ない事だ。彼女の凄さを感じた幾つかの事を記してみよう。きっと信仰の成長のために役に立つはずだ。
①「祈りの人だった」 
彼女は常に祈っていた。問題山積の中にあっても、すべての事を祈りで解決した。現代の私達に不足しているのが「祈り」であろう。祈りを妨げるものが多すぎる時代になっている。だからこそ日々の生活に気をつけて行こうではないか。
「 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。(エペ 6:18)」
②「信仰の人だった」 
「イエス様は何でも出来る」と確信を持って貧しい人達を助けていた。又、自分を絶対に誇らず、「すべては主の御心であり、主がなさっている事だ」と信じて、栄光はいつも主に返していた。だから、どんなに人に褒められても喜ぶこともなく、自慢することもなかった。
③「強い人だった」
「根性の人だった」と言った方が良いのかもしれない。主の働きは、簡単なものではなく、いつも厳しいものだ。環境、財政も厳しい中での働きになることが多い。又、妬まれ、批判され、罵られ、ありもしない悪口を言われる。だからこそ強くならなければならい。マザーテレサも幾度もそのような目に遭った。
④「愛の人だった」
彼女は「十字架の無条件の愛」を持って働いていた。何よりも「命の大切さ」を知っていたから、宗教に関係なく、ヒンズー教やイスラム教の人々も分け隔てなく助けていた。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。(Ⅰコリント13:4)」
是非ともマザーテレサのDVDを見るべし!

2022年5月7日 牧師のつぶやき

今あなたの一番の関心事は何か。少し考えてみようではないか。年齢、信仰、家族の救い、子供、仕事、恋愛、借金、病気、教会、リバイバル……等々。
幾つもあると思う。この世の中は移り変わっていく。このような民謡がある。
「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世から又大和の世、ひるまさ(不思議)変わたるこのうちなー」
世は変わります。悪い方向に変わっていく。今、日本は悪い方向に向かっている。中国とロシアが日本に戦争を仕掛けてくるとマスコミが叩きつけている。だから、この世間から目を離してはなしてらない。右系統の政治家やTVのコメンテーター達が、中国やロシア、北朝鮮を持って危機感をあおっている。
そして、国防の名の元に憲法をも変えようとしている。又、国防予算も大幅にアップさせようともくろんでいる。国民の関心がロシアとウクライナの戦争に集中している間に、今がチャンスとばかりに。
戦争は地上最大の悲劇で悲惨である。命が何よりも大切であると言う人は少ない。ただプーチンの悪口を言うだけである。日本のTVもこの戦争でロシアの批判ばかりを繰り返して放映している。お蔭で視聴率が上がってしこたま儲かっているそうだ。流れてくるニュースが本当なのか嘘なのか誰も解からない。お互いに罵り合うばかりだ。しかし私達クリスチャンは、今まで以上に聖書に関心を持つ必要がある。聖書には様々な事(戦争、飢饉、地震、疫病等々)が起こることを預言している。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(マタイ 24:7)」
つまり、この世界は終わりに向かっているのだ。いや、走っていると言ってもいいだろう。だからしっかりと目を覚まして聖書に向かい、教会に繋がれることである。何よりも聖書を正確に正しく理解しなければならない。なぜなら惑わしの霊が働いているからである。
だから当教会ではスモールグループ(5~6人)を作り、祈り合い、支え合って、一人ひとりがお互いの問題や悩みを真摯に聞いてやれるようにしたい。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(マタイ22:39)」はイエスの命令である。一人でも惑わされることがないようにしたい。問題だらけの時代、思い煩いの時代に突入している。1人で戦うのでなくて2人~3人で戦うことによって勝利の人生はつかめる。アーメン。 「2人は1人よりもまさっている。2人の労苦には、良い報いがあるからだ。」
(伝道者の書4:9)

2022年5月1日 牧師のつぶやき

「幸せ」という言葉がある。幸せって何だろうか。こう聞かれた時にあなたは答えることが出来るか。あなたは幸せだろうか。幸せの基準は一人一人違うが、聖書から幸せになる秘訣を学ぶ人は幸いな人である。
今回もロシアとウクライナの戦争から考えてみたい。
ウクライナの国民は、若くてかっこいい大統領を選んだと思っていた。しかし、彼はロシアと戦争をしてしまった。ロシアは軍事大国である。それはまるで大人と子供の戦いだ。それぐらいの差がある。戦って勝てる相手ではない。案の定、多くの国民が殺されている。子供、年寄り、女性達が悲惨な目に遭っている。又、街は空爆による破壊に次ぐ破壊で無残な姿になった。幸せから一気に不幸のどん底だ。誰のせいで不幸な戦争をしたのかと問われるはずだ。
聖書の凄さは、このような事態に対処する方法、「幸せの作り方」、「幸せを握り続ける秘訣」を教えている。
(新改訳)
「 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。(ルカ 14:31~32)」
(リビングバイブル)
「また、一万人の兵を持つ王が、二万人の敵軍と交戦しようとする時は、必ず参謀会議を開き、はたして勝ち目があるかどうか、あらゆる角度から検討するでしょう。どうしても勝ち目がないとわかれば、敵軍がまだ遠くにいるうちに使者を送り、何としても講和を求めるでしょう。(ルカ14:31~32)」
ここで大切なことは、勝てるかどうかをじっくり考えなさいと教えている。
常に相手をよく分析することだと…。人生も同じだ。就職や結婚等、大事な選択をしないといけない時が来る。その際、「幸せになるにはどうすればいいか」、「不幸を避けるにはどうすればいいか」をよく考えてみる必要がある。私達は子供の頃から「考えることが大事だ」と教えられてきた。つまり、石橋を叩いて叩いて渡ったほうが一番いいのだ。私は急ぐのが好きだ。だからよく失敗をする。そして不幸を味わうことになる(笑)。そのたびに反省をし、悔い改めの連続だ。「急がば回れ」ということわざもある。
「すべて慌てるものは損失を招くだけだ。(箴言21:5)」

2022年4月16日 牧師のつぶやき

長尾伸也牧師

復活祭おめでとうございます。イエス様がよみがえられたことを祝う日です。聖書の教えの中で特に重要なことがいくつかあります。パウロはそれを、1・(イエス様は)私たちの罪のために死なれこと 2・葬られたこと 3・三日目によみがえられたことだと教えています。使徒の働きの中で使徒たちによってたくさんのメッセージが語られましたが、そのほとんどは復活が中心的なテーマです。そのくらいイエス様の復活というのは大事なことなんですね。
先週、車の消臭剤をタダでもらいました。その消臭剤のパッケージに「新車の香り復活」と書いてありました。「〇〇が復活」このうたい文句は、古ぼけてしまったものを再生するイメージを容易に持たせることができるので、よく見るとけっこういろんなものに使われていますね。(こういうこと言われると、そればかり目に着くようになる(笑))仕事で使っている車がかなり男匂臭く、乗るたびにテンションが下がっていたので、新車の香りが復活する消臭剤を使ってみました。少~しも残さず洗い給え~♪と歌いながら、椅子の座面や背もたれの裏側から天上、椅子の下やドアの内張りまでとにかく徹底してスプレーしました。するとなんと!きたきた!新車の様な香りが復活しているではありませんか!さっそくドアを閉めてエンジンをかけて走ってみました。快適快適~あの嫌な臭いはどこへやら、エアコンの風もさわやかに感じます。たったこれだけで車を運転するのも楽しくなります。
そして、次の日。かおり~たえなる~♪と歌いながら車に乗り込むと・・・新車の香りがさわやかに香っているではありませんか!やっぱこうじゃないとね。さっそくドアを閉めてエンジンをかけて走ってみました。あれっ?なんだこの匂い?なんと!乗った瞬間はわからなかったけど、密閉したら男匂が復活しているではありませんか!なんだこれ!金返せ!あっ、払ってないか。やっぱり元に戻るというわけにはいかないんですね。
聖書の中にイエス様以外に復活した人が七人出てきます。ツァレファテのやもめの息子、シュネム人女性の息子、ヤイロの娘、ナインのやもめの息子、ラザロ、ドルカス、ユテコという青年です。彼らは預言者やイエス様や使徒たちを通して死から復活しました。しかし、彼らの体が永遠に生きたわけではありませんでした。
しかし、イエス様の復活は彼らの復活とは全く違います。イエス様は葬られて、誰をも通さず、ただ、イエスを死者の中からよみがえらせた方(ローマ8:11)つまり、神から直接よみがえらされて、二度と死ぬこともなく永遠に生きておられます。そしてイエス様を信じる私たちもまた、朽ちない体によみがえって(Ⅰコリ15:53)いのちを受けます(ヨハネ5:29)アーメン。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない(黙示録21:4)こういうすばらしい約束があるのです。

2022年4月10日 牧師のつぶやき

世界中がコロナに翻弄されて3年目を迎える。この事により、生活の営みが大きく変化させられた。沖縄も例外なく大きく変わった。まず、交通量が相当に減少した。シャッターを下ろす店が増え、街は閑散としている。人々はマスク生活を余儀なくされた。一番気の毒なのは子供たちだ。遊びたいのに自由に遊べない。本来なら何の心配もなく毎日楽しく過ごせるはずなのに。しかし、今は毎日マスクをつけ、窮屈な生活をさせられている。
3月にはコロナも静まりかけ、やれやれと思っていた矢先に、第7波が来てしまった。ここ5日間は感染者が連続1,000人を超えている。本当にいつ終息するのか誰にも見当がつかない。今後とも尚一層、気をつけなければならない。 手洗い、消毒、換気を徹底すべきである。
そして、私たちクリスチャンは、皆がコロナから守られるように、御言葉を用いて祈らなければならない。
「主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。(詩篇 91:3 )」
御言葉ほど大事なものはない。私達の命であるからだ。イエスは言われる。
「人はパンだけで生きるのでない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。(マタイ4:4)」
このような困難な時に、頼れる御言葉があるということは本当に素晴らしい事だ。しかし、とても気をつけなければならないことがある。
「彼らには聞いた御言葉が益にならなかった。御言葉が聞いた人達に信仰に結び付けなかった。(へブル4:2)」とある。あなたはどうか?
さて、世界中がコロナの最中、ロシアとウクライナの戦争がはじまった。戦争は絶対にしてはならないのに。日本をはじめ、世界各国のすべてのマスコミ(TV)は、連日、シャワーのごとくにこれを報道し続けている。一方的にロシアが悪者となっているが、クリスチャンならば、ここらで考えてみるのも良いと思う。何故に戦争が起こったのか? 何故に回避できなかったのか? 何故に戦争の悲惨さを理解出来なかったのか? 何故に命よりも大事なものはないと分からなかったのか? 何故に子供、老人、女性達に被害が及ぶと分からなかったのか? 本当にウクライナのゼレンスキー大統領は賢いのか? 今は世界中からスーパーヒーロー扱いされているが…。つぶやかざるを得ない。

2022年4月3日 牧師のつぶやき

今日は素敵なゲスト、岐阜市の市長 柴橋(しばはし)正直(まさなお)氏を招いての特別礼拝です。
岐阜市は人口が約43万人で、織田信長の出身地でもある。タラレバを言えば、織田信長がもっと長く生きておれば、日本はクリスチャン国になっていただろう。本能寺の変は非常に残念だ。しかし、近い内、クリスチャンの若い首相が誕生するだろう。柴橋市長の著書の中には、そのように、彼が神から預言を受けたと書いてある。神からの預言は必ず成就する。
私は牧師になって以来、ずっとその事を祈ってきた。沖縄、日本にリバイバルが起こって、クリスチャン議員が多く誕生し、世界に平和を発信する国になることを。その根底には、日本しか持っていない「平和憲法第9条」がある。
本当に素晴らしい憲法だと思う。神から与えられた憲法だ。
クリスチャンには「キリストの偉大なる愛」が与えられている。それに次いで、「平和の教え」が与えられている。聖書には「平和を作る者は幸いなり、その人たちは神の子供と呼ばれるから(マタイ5:9)」とある。キリストは平和の神である。このことはクリスチャンにしか理解出来ないし、実現も出来ないと思っている。しかし、クリスチャン国と言われているアメリカは、世界で一番戦争をしてきている国である。国内の南北戦争から始まって、第一次、第二次世界大戦、朝鮮、ベトナム、イラン、イラク、アフガニスタン等々、世界中で戦争をして来た。アメリカはクリスチャンも多いし、教会も多い。そうでありながら何故に戦争ばかりしているのか。それは憲法が違うからである。アメリカには日本のような「平和憲法第9条」がないのだ。今、ロシアとウクライナが戦争をしている。戦争は絶対にしてはならない。戦争には勝者も敗者もない。ヒーローも勇者もいない。あるのは破壊と何にも代えがたい命が失われるだけである。命よりも大切なものはない。イエスは人の命を救うために十字架にかかったのである。私は、柴橋市長のYouTubeからのメッセージを聞いて、とても感動し嬉しくなった。そして、岐阜市長選挙の為に皆さんと祈ってきた。祈りが聞かれ、今日、この場にお招きすることができ大変喜んでいる。これを機に、クリスチャンには是非とも政治の大切さを知って欲しいと思う。私はこれまでも度々、礼拝で政治のメッセージをしてきた。又、選挙(知事、国会議員、県会議員、市会議員)の度に、平和の候補者を応援してきた。現に当教会には、中城村会議員で議長を務める「新垣博正伝道師」と、那覇市会議員の「山田マドカ姉」がいる。神による未来の平和の使者達だ。
今日は柴橋正直市長のメッセージに大いに期待しよう!! アーメン。

2022年3月20日 牧師のつぶやき

今回は戦争についてつぶやくことにする。今、世界が注目しているのは「ウクライナとロシアの戦争」である。戦争は絶対にやってはいけないことである。しかし、戦争は無くならない。何故か? 人類はこれまで何度も多くの悲惨な体験をしてきたはずなのに、どうして懲りずに愚かなことをするのだろうか。聖書はこのような戦争に対処する「道」を明確に教えている。それはどのような「道」なのかを見てみよう。
1609年、薩摩が琉球に侵攻した。薩摩軍は3月4日に、琉球王国の奄美大島から徳之島、冲永良部へと進軍してきた。ほとんど各島々は抵抗しなかった為、島民に死者が出なかった。その後、ついに本島の北部の『運天港』に侵攻した。しかし、今帰仁城はもぬけの殻だった為、中部、南部へと進んでいき、首里城に到達した。ここでも一部の過激派を除いて抵抗はしなかった。そして、4月1日には和平協定に調印となった。わずか一カ月ほどで戦争は終わった。死者もほんのわずかだった。それは琉球側が戦いを望まなかったからである。薩摩の支配下を選んだのである。それはとても賢い選択だった。その結果の一つに、島民には被害が及ばなかった。二つ目に、薩摩の支配下にあっても琉球王国は400年も存続した。文化も言葉も違った薩摩に支配され、奴隷みたいな扱いを受け、様々な困難もあったが、そのお蔭で今の沖縄がある。聖書にも同じような教えがある。今、私達は聖書こそ万物の創造主なる神の絶対的な教えであり、今も昔も変わることない言葉であることを宣言し、信仰を見せるべきである。聖書は大昔から戦争回避の知恵を記述している。イスラエルの民は約400年間エジプトの奴隷として扱われてきた。彼らは増え続けて強力な民になった。しかし、武器を持っての反乱等々は起こさなかった。神の助けの御手が伸ばされるまで…。だから今のイスラエルがある。又、ヨシュア記には非常に賢い民達が登場する。ギブオンと言う王国である。彼らは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が神の軍団であることを知り、戦うことを選ばずに降伏することを選んだ。ヨシュア記9章3~15節にはその状況が詳しく書かれている。他の国々はヨシュアとの戦いを選んで聖絶に遭っている。つまり女も子供も殺されたのである。今のウクライナはどうか。勇敢に戦っているが、多くの子供や市民が殺されているし、市街は破壊され瓦礫となっている。食糧も無く、水もない。もちろん社会生活は完全に機能停止だ。しかも300万人の国民が国外に脱出している。はたしてゼレンスキー大統領は良きリーダーだろうか。戦争を回避した琉球の尚寧王や、ギブオンのリーダー達、江戸城を無血開城した勝海舟と西郷隆盛とどう違うのか考えてみよう。

2022年2月12日 牧師のつぶやき

長尾伸也牧師

最近、焚火台というものを買いました。金属製の三脚ならぬ四脚にステンレスのメッシュシートを張り、その上に薪を乗せて燃やします。メッシュシートが風を通すので火がくすぶりにくく、地面から少し浮いているので折り畳みの椅子に座ったまま薪を足したり、薪の位置を変えたりするのにちょうど良い高さで、簡単、快適に焚火ができる優れものです。近頃はコロナの影響でキャンプなどアウトドアが流行っていて、ホームセンターや百均などでアウトドアグッズが安く揃います。
はじめは一人でテストしてみました。海に行き焚火台をセットして薪を並べ、細い流木のかけらや、ヤシの残骸などすぐに燃えそうなものを探してきて、その上に火打石(百均に売ってます)をガリガリ削って粉を落とし、少し貯まったら勢いよく削ると発火してパチパチと音を立てながら赤くなって煙が出てきます。ところがいくら頑張っても火が燃え上がらないので、念のため買っておいた(笑)ターボライターで点火するとあっという間に燃え上がりました。でも、細かい物が燃え尽きるとまたすぐにくすぶり出して、薪そのものはなかなか燃え上がりません。1時間ほどやってみて、薪と薪がはなれていると一時は燃えてもすぐにくすぶってしまうことが分かりました。
二回目は、あきふみ兄とやりました。これまた火打石ではらちが明かず、仕方ないので今回もターボライターで点火しました。私の一回目の経験とあきふみ兄の考えを足してやってみると今度は一回目よりだいぶ効率よく火が付きました。薪同士がお互いの火でお互いに燃やし合うようにするとどんどん燃えます!串にフランクフルトや肉を刺して焼いて食べました。賛美を聞きながら神様が造った自然の中で、薪と火という神様が造ったシンプルな方法で味わう食事は最高です!一人で静かに過ごすのもいいけど、二人でやると喜びも倍増します。
三回目は依存症回復グループでやりました。お祈りをして、みんなで賛美を歌ってからはじめました。もうだいぶ慣れてきたので「俺はできるんだぞ」という顔でサクサク準備をします。着火は当然ターボライターです。(笑)人数も多いので薪をたくさん燃やしました。串刺しのフランクフルトや肉、アルミでくるんだジャガイモを食べましたが、どんどん燃えるのでどんどん焼けます。楽しい楽しいとみんな大喜びです。最後にはみんなで一人一人神様への感謝のお祈りをして終わりました。ほんの二時間半でしたが大満足の時間を過ごしました。
詩篇133:1 「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」
薪と薪が近いことでお互いの火でお互いを燃やし合ったように、イエス様を信じる私たちも互いの交わりで信仰が燃えるというのを肌で感じました。喜びが生まれました。二人三人クリスチャンの集まるところにイエス様はおられます。集まってイエス様の話をしましょう!

2022年2月5日 牧師のつぶやき

ハレルヤ!
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリ13:13)」 これはクリスチャンの基礎である聖句だ。私達を慰め、励ましを与えてくれる。今日は「信仰」「希望」「愛」について挙げてみよう。
①「信仰」
キリスト教以外の宗教は全て空しいものばかりだ。日本には様々な宗教がある。仏教、日蓮宗(創価学会)、立正佼成会、新興宗教…等々。又、沖縄にしっかりと根を下ろしている仏壇信仰、ユタ信仰もある。海外に於いては、イスラム教、ヒンズ―教、エホバの証人、モルモン教…等々がある。これらは全て空しいものばかりで、人を滅びに導く宗教である。なぜなら「贖い」「悔い改め」「赦し」がないから。これでは真理とは言えない。キリストの教えだけが真理である。「十字架の贖い」「甦り」「永遠の命」がある。私達はイエスを救い主と信じる信仰をもって最高に幸せだ。
②「希望」
希望がない人は残念ながら人としての喜びがない。霊的に死んでいて、ただ生きているのである。しかし、真の神イエス・キリストを信じている人には希望があり生き生きとしている。今日、明日をしっかりと生きている。ハレルヤ!夢はクリスチャンにとって非常に大事なことだ。なぜなら甦りがあるからだ。いつまでもこの体のままではない。変えられて全く新しくなるのだ。
「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる(詩篇103:5)」
③「愛」
愛は非常に大事なものだ。聖書が言うように「信仰」、「希望」「愛」の3つの中で一番すぐれているのは「愛」だと言う。イエスが言う「愛」は厳しくて重い。重すぎると思う。十字架の愛を持つようになるにはどうすればいいのか?モーセは約200万人のユダヤ人を率いてカナンの地を目指した。しかしユダヤ人達は超わがままで頑固だった。又、非常に攻撃的でよく反抗した。このような民を相手にモーセは執り成しを続けたのだ。姉ミリヤムと兄アロンが手を組んでモーセに反抗した時も、執り成しの祈りをしている。そのようなモーセの姿こそクリスチャンのリーダーの見本、手本だと思っている。 「さて、モーセと言う人は、地上の誰にもまさって非常に謙遜であった。」
(民数記12:3)
願わくば、私も神様から同じように言われたい。モーセのような愛のリーダーになりたいものだ。
アーメン。

2022年1月28日 牧師のつぶやき

ハレルヤ!!主の御名をほめたたえます。 今月の初旬からオミクロン株が急速に感染拡大してきた。今日現在、全国約8万人、沖縄1,200人の感染だ。恐ろしい数字だが、あまり緊張感がない様に思える。あのコロナウイルスの騒ぎに比べたら考えられないことだ。何故か?それは2年近くに渡ってコロナウイルスの恐怖を体験したからだ。国民は第1波から第5波迄コロナに苦しめられた体験をしてきた。それで、コロナの恐怖にどのように対処すれば良いのか、ある程度分かってきたのだ。又、オミクロンがコロナよりも症状が弱いことも危機意識を薄くしている。何事にも体験は良い勉強になる。聖書の世界も同じようなものだ。聖霊体験はクリスチャンにとって非常に大切なことだ。私は2回に渡って聖霊体験をした。最初は二度目に教会に行った時だった。最初に教会の礼拝に行ったときは何も感じなかった。感じるどころかつまずいて教会を後にした。とてもがっかりして帰った。もう二度と教会に行くものかと思った。しかし、不思議なことに土曜日の夕方になったら、もう一度だけ教会に行こうと思うようになった。そして、日曜日に二度目の礼拝に行った。教会堂に入った瞬間クリスチャン達の顔が輝いていた。一人一人が光を放っていた。そして「クリスチャンは偉い」という強烈な思いが心の中に入って来た。非常に不思議な体験だった。それ以来、教会には一日も欠かさずに通うようになり、すぐに洗礼を受けた。二回目は断食をしている時だった。当時の私は問題が多すぎて断食ばかりをやっていた。一週間の断食や三日間の断食。また二食抜きの40日間断食と辛いクリスチャン生活を送っていた。お金もなく北部のビーチでテントを張って断食をした事もあった。ある時、那覇市のビジネスホテルに泊まり込んで三日間の断食をした。すると突然舌が変になり異言が出来てきた。一瞬びっくりしたがとても嬉しかった。待望の異言が出たのである。聖霊が降りたのだ。それ以来、信仰が確実に成長していった。聖書の意味がよく理解できるようになり、聖書を読むのが苦にならなくなった。体験はクリスチャンだけでなく、色々な面で必要な事である。「百聞は一見にしかず」という諺があるように、クリスチャンには聖霊体験と神体験が求められる。なぜなら、父なる神もイエスも聖霊も「霊」だからである。私自身も体験をしたから、異言も預言も聖霊の働きも認めることが出来るのである。 「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。(使徒の働き19:6)」 あなたも聖霊体験をしてほしい。アーメン。

2022年1月22日 牧師のつぶやき

長尾伸也牧師 最近「358」という車のナンバーをよく見かけるようになりました。毎日と言っていいほど見ます。そのことを誰かに話すと、だいたいの人が「今まで気づかなかったけど本当によく見かける。」と言ってきます。車のナンバーはお金を払えば好きな数字を選べるので「777」とか「8888」というのは以前からよく見かけましたが、「358」???。インターネットで調べてみるとどうやらこれも縁起が良いということで人気があるようで「エンジェルナンバー」と呼ばれているそうです。しかし、どうしてこんな中途半端な数字が縁起が良いのでしょうか?「風水的に良い」「変化を良い方向に導く力を持つ」「恋愛に良い」「仕事がうまくいく」はたまた「警告」など色んな人がいろんなことを言っています。何でもいいんじゃんっ!(笑)どうも最初は名古屋限定で流行っていたご当地ものが全国に飛び火して沖縄にまでその流行が流れて来たということらしいです(真偽不明)。その流行たるや「沖縄59C」というように、申し込みが多すぎて三桁の数字が足りなくなってしまったので数字の代わりにアルファベットを使っているくらいたくさんの人がこのナンバーをつけているんです。こういうところを見ると日本もリバイバルの要素があるかも?と思いたいのですが、悲しいことに本物には目が向きません。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。Ⅱコリント4:4」私もクリスチャンになる前は初詣に行っておみくじを引いたりしていました。大吉が出るまで引き続けましたが(笑)、それもお金で幸せを買おうとしている点で「358」と同じですね。賽銭箱に10円か50円、せいぜい100円くらい入れて、お願いすることと言えば「お金持ちになりますように」というような自己中心な願いがその頃のお祈りであって神観、幸せ観でした。でも、本物の神様は自動販売機ではないので、お金を入れて自分の欲しいものを願ったら、欲しいものだけが自動的に出て来るというようなものではありません。イエス様は十字架を目の前にして苦しさのあまり「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。マタイ26:39」と父なる神に願いました。しかし、そのすぐ後で「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と祈っています。「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。マタイ6:9-10」「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。マタイ6:33」神のみこころを求めることこそが、幸せを引き寄せる 最高の方法です!

2022年1月15日 牧師のつぶやき

ここしばらく超寒い日が続いているが如何お過ごしだろうか。毎日会う人もいれば聖日礼拝の時しか会えない人もいる。体にはくれぐれも気を付けたいものだ。新年がスタートした。皆は良いスタートがきれただろうか。私は心身共に絶好調である。常に体には気をつけるようにし、鍛えるために毎日軽い運動をしている。聖書に「愛する者よ、あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ2節)」とある。私はこの御言葉が一番好きである。だから、体を鍛えると同時に、毎日自分の魂に呼びかける。「昌良よ、喜べ、喜べ、感謝せよ、感謝せよ!!」と。良い時も、辛く悲しい時も、苦しい時も、悪い時も。アーメン。それは身も心も平安を得る為である。そして、毎日、天の父へ「今年も心身共に健康であるようにして下さい」と祈っている。もう一つの祈りは、信仰の成長である。「私の信仰をアブラハムの信仰とモーセの信仰のごとくに成長させて、揺るがない強い信仰を与えて下さい」と祈っている。特にモーセは80歳になった時に神に呼ばれた。彼は40年間荒野で羊を飼いながら、身も魂も鍛えられ強靭な体がつくられた。毎日義理の父の羊を飼っていた。大変な仕事だった。昼は照りつける太陽に耐えられるように、夜は寒さに耐えられるように。又、羊を狙う獣と戦わなければならなかった。何よりも弱っている羊を看病しなければならない。水を与え、薬草を飲ませ、岩陰に休まさなければならなかった。これらの体験や訓練が後のエジプト脱出で役に立ったのだ。私達もいつ神に呼ばれるのか分からない。だから常に備えはしておいた方が良い。これこそが大事な事であり必要な事だと思っている。だから、皆さんも共に信仰の成長の為に心身を鍛えようではないか。その為にはまず、あなたの考えを変えよう。いや勇気を出して捨てた方がいいだろう。
そこで、本「悪魔の格言」の中から一つ紹介しよう。
「神を見ず、世を見て、人を見て、自分を見て」 
悪魔は「いつまでも頑固なままでいてよ。そんなあなたを神は祝福するよ」と言っている。騙されるな!! 
我らは御言葉を握ろうではないか。ダビデはその格言を打ち砕いた。
「私はいつも、私の前に主を置いた。(詩篇16:8)」 アーメン。

2022年1月9日 牧師のつぶやき

長尾伸也牧師
オミクロン株がすごい勢いで感染者を出しています。一時は感染者数一桁代が続いてこれで収束かと思ったのですけれどそうは行きませんでした。これを書いている7日の時点で東京922人に対して沖縄は1414人。今は沖縄が多いのですが、これだけ感染力のあるウィルスなので市中感染が始まってしまえばどこも同じように増えていくのではないでしょうか?クリスチャンだからと油断せず、手洗い、うがい、お祈りという基本的なことをおろそかにしないようにしていきましょう。
私がクリスチャンになって間もない時から大変お世話になっている方がいます。私のことを我が子のようにかわいがってくれて、この方を通してたくさんのものを受け、教えられてきました。現在85歳ですが、創世記から黙示録まで聖書66巻を200回以上通読した猛者です。この方が去年の暮に足の皮膚が腫れて痛いので病院に行きました。すると、貧血気味ということで検査するために一週間入院となりました。年を取ってから入院するのはとても大変なことですが、「聖書がたくさん読めます」と言って喜んでいました。「いつもたくさん読んでるでしょ」と突っ込みたいところですが(笑)、そのポジティブな姿勢には驚きました。ところが、検査をしてみると小さなポリープが見つかったので、詳しく調べることになり入院が伸びたのです。さすがに落ち込んでいるだろうと思っていましたが、「もっと居ていいそうですよ!ご飯も出てくるし快適ですよ!」とまだポジティブです。私もこんなふうに肯定的に物事が考えられるようになりたいなとつくづく思いました。ところが更に検査してみると今度は大きな腫瘍が見つかったのです。しかし、それでも「これが早く見つかるために足が腫れて病院に来た。神様に感謝です。」とどこまでもポジティブです。小さなポリープだけならば胃カメラで手術できるのですが、腫瘍となるとお腹を切らなければならず、大きな病院に転院して手術を受けることになりました。6時間に及ぶ手術です。いくら信仰があるとはいえ年齢のことを考えると心配でした。「手術が無事に終わった」とその日の夜に電話がありました。しかし、麻酔が残っているのか声が弱々しく、ことばも少なかったので心配は続きました。次の日「まだICUにいます」とか細い声で電話があり、電話越しに祈りました。そして、三日目の朝5時前に電話がなりました。こんな時間に電話してくるとはただ事ではないと思いすぐに電話を取ると、本当に苦しそうな声で「苦しい、祈ってほしい」というのですぐに祈りました。その日の午後もう一度電話があり、今度は朝までとは打って変わって「良くなりました」と嬉しそうにいつもの元気な声に戻っていました。ハレルヤ!苦しくて仕方がないときにナースコールよりもジーザスコール(お祈り)に頼る姿に信仰者の強さを見ました。

2021年12月17日 牧師のつぶやき

クリスマスは非常にロマンチックだ。その思いはクリスチャンでない方々の方が強い様に見える。何故にクリスチャンでもないのにクリスマスを大事にするのだろうか。恋人達が大事にするし、家庭でも大事にする。企業も大事にしてイルミネーションを飾ったりする。非常に不思議な現象だ。世界の七不思議に加えてもいいと思うくらいだ。世界の七不思議とは、ギザの大ピラミッドやバビロンの空中庭園など、目に見える建造物のことを言っているが、目に見えない形の不思議が聖書の世界には登場する。
① 神が光あれ!と言ったら光が出来た。この世の全てを神は言葉で創った。
無から有を生み出した。信じられるか?
②初代の人々は900年以上生きた。こんなに長生きして人生に疲れなかったのかと心配する。信じられるか?
③ 90歳の老女サラが子供を産んだ。信じられるか?
④ 海が割れて道になった。信じられるか?
⑤ 天からマナが降ってきた。40年間も。信じられるか?
⑥ 岩から水が川のように流れ出た。信じられるか?
⑦ エリヤが天から火を降らして50人の兵隊たちを焼き殺した。信じられるか?
⑧ エリヤは生きたまま天に上げられた。信じられるか?
⑨ 処女マリアがイエスを産んだ。信じられるか?
⑩ イエスは殺されたが蘇った。信じられるか?
これらはすべて聖書の世界で起こった出来事だ。あなたはこれらの全てを信じることが出来るか。よくよく考えてみると、一つ一つが素晴らしいロマンに満ちていることばかりで、現実に起こった事なのだ。特にマリアの妊娠はロマンチックそのものだ。人の心に安らぎを与えている。何しろ天地万物の創造主から人間に対する最大の贈り物だからだ。これがクリスマスだ。
イスラエルに伝わるクリスマスの逸話を紹介しよう。幼子イエスを殺そうと当時のヘロデ王は、ベツレヘム近郊の2歳以下の子供の皆殺しを命じた。天使がマリアの夫ヨセフに、すぐにエジプトに逃げるようにと告げた。ヨセフはすぐにマリアとイエスを抱いて真夜中に荒野の中へ逃げた。ヘロデの兵隊達は馬に乗って追った。洞窟の中に逃げ込んだイエスの姿を見た「蜘蛛」は、糸を出して洞窟の入り口を覆った。兵隊達は洞窟の入り口に来たが、覆っている蜘蛛の巣を見て洞窟の中に入らなかった。蜘蛛は王子のイエスを助けたのである。張られた蜘蛛の糸はキラキラ輝いていたそうだ。これがクリスマスツリーの原型になったのだ。何と素晴らしいロマンではないか。私達人間の心も、あの蜘蛛のように救い主イエスを感じるのだ。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても人であれば誰でも。これが不思議なクリスマスの起源だ。アーメン。

2021年12月12日 牧師のつぶやき(長尾伸也牧師)

もうすぐクリスマスです!誕生を世界中の人が祝うってすごいですね。さすがイエス様!聞くところによると大阪のあるお寺にはクリスマスツリーが飾ってあるそうです(笑)でも、街を見るとなんだか年々クリスマスの雰囲気が薄れてきている感じがします。お店のクリスマス関連の力の入れ方なんかも、ちょっと弱くなっている気がします。(ビブロス堂を除いて) アメリカなどではこの時期「メリークリスマス」と挨拶しますけど、クリスチャン以外の人には「メリークリスマス」と言わずに「ハッピーホリデー」と言うこともあるそうです。日本でもCMなんかで時々聞きます。この挨拶、人間的には他の宗教を持っている相手を気遣っていて良いような気がしますが、ちょっと待って下さい。こういうちょっとしたことが積み重なって大切なものがだんだん見えない世の中になっていくんですね。私達の敵であるサタンは「平等」とか「自分らしさ」とか「自由」というものをうまく使ってきます。しかし、キリストの誕生を祝うんだから「メリークリスマス」が正しいし、そんなの嫌だっていう人に合わせる必要はまったくないのです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません」とあるとおりです。でも、アメリカでもバリバリのクリスチャンの人がいる地域では「ハッピーホリデー」と挨拶したら「メリークリスマスと言え!」と怒られたりするそうです(笑)。こういう状況って、多くの人がクリスマスをハロウィンや初詣やその他いろんな行事の中の一つくらいにしか考えていないからではないでしょうか?私もイエス様が生まれたほんとうの意味を知ってから、クリスマスは大切なお祝いなんだということがわかりました。
イエス様は私達を救うために、神の御姿であるのにそのあり方を捨て、人としてこの地上にお生まれになりました。(ピリピ2:6−7)それがクリスマスです。(ルカ2:11)しかも罪のないイエス様が、私達の罪の身代わりに十字架で死ぬために生まれてくださいました。(Ⅰペテロ2:24)しかもそれは、私達が悔い改めて真面目になったからではなく、「罪人であったとき」(ローマ5:8)だと聖書は教えています。そんなにすごいことが起こったのに、他のイベントと一緒に並べてよいわけがありません。クリスマスは特別な日です。しかし、それを知らない人をさばくわけにはいきません。以前は私達もそうだったのですから。私達がそれを知ることができたのは、ただ神の憐れみですから神に感謝です。そして、誰かに伝道されたはずです。聞くことがなければ知ることも信じることもできません。(ローマ10:14)ですから、私達のするべきことは伝道です。
クリスマスは一年で一番伝道しやすい時期でもあります。教会に誘ってもなかなか来ない人もクリスマスだけは心が開かれています。クリスマスは一年で一番イエス・キリストに対して人々の心が開かれているときです。伝道しましょう!

2021年12月4日 牧師のつぶやき

クリスマスが近づいて来た。イエス様の誕生を祝う月だ。生まれた月日は明確には分からない。生まれた日の記述が聖書に書いてないからである。しかし誕生したのは事実である。だから誕生を祝う日に選ばれたのが12月25日だ。
聖書は意地悪である。何ももったいぶらないで明確に誕生日を教えてもいいのではないか。何故に明確に記述しないのか、その御心の真意が分からない。誰か知っている方がいたら教えて欲しい。又、祈って答えをもらった方も知らせて欲しい。私もいつか、マタイの福音書とルカの福音書の中から、イエスの誕生日の特定に挑戦してみようと思っている。正確には無理だが、ある程度は近づけるのではないかと思う。一つだけ12月25日説を否定出来る箇所を示そう。
「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。(ルカ 2:8)」
羊飼い達が野原で羊を飼える期間は、だいたい新の暦で10月頃までである。 11月~12月は寒くて野原で羊の夜番をすることは出来ない。だから、おおよその見当をすると、9月~10月頃にイエスは誕生したと言える。12月25日に誕生したとは到底言えないだろう。
今回はヨセフ、マリア、赤ちゃん(イエス)の3人の逃亡劇に於ける感動する逸話を記してみよう。イエスが誕生して間もなく、ヨセフは夢で「ヘロデ王が赤ちゃんのイエスを殺そうとしているから早く逃げるように」と告げられた。
早速、彼らは夜のうちにエジプトに向けて逃亡した。しかし、夫婦と赤ん坊の3人では強盗に襲われたらひとたまりもない。正に強盗一味が待ち構えていた。彼らが3人を襲って金品を奪い取ろうとしたその時に、「ディスマス」と言う強盗の一人が、イエスの顔を見て不思議と心動かされ、両親とイエスを守ったのである。そして「ああ、子供達の中で最も祝福された者よ。もしも私に憐みを掛けて下さる時が来たならば、私を覚えてください」と言った。その人が、イエスと共に十字架にかかった時に「イエス様、私を覚えてください」と言った強盗の一人だったそうだ。これは、イエス様を助けることがどれだけ主に喜ばれ、又、困っている人や貧しい人を助けることが、主の御心を動かすことになるかを示している。
「憐れみ深い者は幸いなり、その人たちは憐みを受けるから。(マタイ5:7)」
クリスマスには皆、互いに贈り物をし合って愛を確かめている。
さあ、今年も私達は母子寡婦(シングルマザー)の皆さんに憐みを示そうではないか。一人一品でクリスチャンの愛を示して行こう。主を喜ばす為に。
アーメン。

2021年11月27日 牧師のつぶやき

2021年も終わりが近づいた。私自身、「どのような一年(12月が残っているが)だったか?」と聞かれたら、すぐに「最高の年だった!」と言える。感謝の一年だったし、祝福と恵みの一年だった。何が良かったか、どのような祝福が与えられたか、数え上げればきりがないくらいだ。この事は来週(12/5)のつぶやきで詳しく述べることにしたい。一つだけ述べると、愛する家内(ママと呼んでいる)との関係が一段と仲良くなったという事だ。絆が太くなったと言った方が分かり易いかもしれない。アーメン。
さて、ここからは、良書案内をしていきたい。
当教会は、22年前にスタートしてから約10年間、毎月「良書案内」をしていたが、なぜか12,3年前から止めていた。だが、先月から再開することにした。手始めに前回は「一生感謝」という本の薦めをした。今回も最高の本をお薦めしたい。そしてこれを皆さんへのクリスマスプレゼントとする。(各自で買ってくださいね。「紹介」がプレゼントです(笑))とにかく最高の本だからである。
タイトルは「悪魔の格言」である。この本に関して一つだけ注意をしたい。
「この本を裁くな」という事である。なぜなら、この本を出版したら、読者(クリスチャン)から苦情が来たそうだ。「悪魔の格言を出版するとは何事か」と。
この本の中の格言の一つに、非常に面白いものがある。
「あるがままずっと。そのままいつまでも」
つまり、サタンは私達に成長しないように勧めているのである。
「聖書を読まないでいいよ」「祈らないでいいよ」「勉強しないでいいよ」「今のままで十分だよ」「神様は今のままのあなたを愛しているから大丈夫だよ」「何も無理しないでいいよ」「ありのままのあなたが素敵だよ」等々。
これがサタンの格言なのです。クリスチャンになってあなたは変わりましたか。もしかすると、ニコデモさんみたいに「生まれ変わることの意味」が理解できないクリスチャンではありませんか。
(イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:3) 多くのクリスチャンが変われないままでいます。問題や悩みに振り回されています。不平不満、愚痴のかたまりです。そして、いつも人のせいにして、「教会に愛がない」「牧師に愛がない」「信徒に愛がない」「あの人が悪い」「この人が悪い」…と言っている。いや、言わされている。誰に?悪魔に。そのような人は残念ながら「神の格言」ではなく、「悪魔の格言」を見事に受け入れているのである。あなたはどうか。是非、この本を買って読んでほしい。そして悪魔の戦略を知ってほしい。
(エペソ6:11~13)

2021年11月21日 牧師のつぶやき

世の終わりのしるしを求めた弟子達に、イエスは次のように答えられた。
「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。(マタイ24:12)」
キリストの世界では今は終わりの時代と言われている。その通りであろう。
なぜなら、あまりにも不法が全世界ではびこっているからだ。日本もその一つの国であろう。おそらくは先進国と言われている国の中では一番の不法の国であろう。今の政治の話題は政治家達の運動費(活動費)の100万円が領収書なしで与えられている事だ。大切な税金が領収書なしだそうだ。信じられないのだが、与野党を問わず全国会議員が、何のこだわりもなく当たり前のように受け取っているそうだ。国の法律や未来を作り上げるトップ達の神経がそのようなものだったら「何をか言わんや」だ。当然、この国に未来や夢がある訳がない。しかし、問題は国民の善悪が麻痺していることだ。だから不法が不法にならない。政治が麻痺すれば、行政も麻痺し、司法(警察、検察)も麻痺する。もちろん大事な立法(裁判所)も麻痺する。そして国民も、個人も、すべてにおいて麻痺状態になる。
創世記にソドムとゴモラの町が登場する。この町は不法地帯に陥っていた。もう自助作用が働くことが出来なくなっていた。大人も子供も皆が罪に麻痺していた。同性愛だけが問題ではなかった。無慈悲が働いていた。唯一のキリスト者であるロトは非常に悲しんでいた。
「 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(Ⅱペテロ2:8)」
だから、私は今の日本沖縄を見て、つぶやかずにはおられない。
自助作用が失われたら恐い。なぜなら、その時に生きている神様が力を持って介入するからである。今のままであれば、私達はソドムとゴモラのような大きな裁きに直面することになる。
私達はどうだろうか。何かにつけて麻痺してないか。平気で人の悪口を言い、平気で教会を裁き、そして自分は正しいと思っていないか。
今年も残り少なくなっていく。今年を振り返りながら信仰をチェックする必要がある。この終わりの時代に自分の信仰を見つめるのもいいと思うのだが…。そして私達は必死に祈る必要がある。膝をかがめて、憐みを乞う時であろう。又、憐みの神様にすがり祈ろうではないか。沖縄、日本のリバイバルの為に。

2021年11月14日 牧師のつぶやき

沖縄ベタニヤチャーチは1999年11月14日(日曜日)に誕生した。その前は約2カ月ほど自宅で細々と礼拝をしていた。あれから今日(11月14日)で22年目になる。振り返ってみれば長~い長~い戦いの日々であった。牧師になること自体がボタンの掛け違いだと思っていた。しかも、ホームレスの方々の支援をやることになるとは夢にも考えていなかった。私は当初、癒し、不思議、奇跡の教会を目指していた。アルゼンチンのリバイバリストのアナコンディア氏や、アフリカのラインハルト・ボンケ、アメリカのベニー・ヒンみたいに。又、聖書の登場人物のペテロやパウロみたいになりたかったのだ。そのために断食をしたり、何時間も祈ったりした。実際に彼らに会いにも行った。伝道も楽しくやれた。預言者から預言もよく受けた。いいことずくめの預言だった。それにより大きな自信を持つことが出来た。牧師になるのだったら普通の牧師にはならないと決めていた。いよいよ牧会が本格的に始まった。夢があった。毎週金曜日は癒しのミニストリーを持って楽しくやっていた。癒しが起り、私が按手すると人々はバタバタと倒れた。この不思議を見て心踊った。しかし、ホームレスの方々が教会にどんどん増えて行き、寝泊まりするようになった。私の楽しい牧会が段々苦しさを増すようになった。教会は人の出入りが激しくなった。ホームレスの世話に力を注ぐことにより、信徒の皆さんに対する心づかいが出来なくなり、教会から多くの方々が去っていった。問題は山のように積み上がってきた。私の願いと夢に神様は見向きもしなかった。代わりに弱い方々や苦しんでいる方々の世話を命じたのである。そんなはずではなかった。私の夢はそれではなかった。だから祈りはいっそう激しくなった。神様との戦いだった。泣きながら祈り、文句も言った。「したくありません」と。しかし神様は沈黙を続けた。家内はよく彼らの散髪をした。身なりを整えた。彼らのお母さんになった。そして戦いは段々と勝利に向かっていった。「エデンハウス」が与えられた。「朝日のあたる家」も与えられた。スタッフの多くが、わけありの方々で占めた。みんな優秀な方々ばかりだった。ハレルヤ!! 今は、「支援してきて良かったなぁ」とつくづく思っている。
素晴らしい働きを与えてくれた神様に感謝します。アーメン。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」
詩篇136:16

2021年11月7日 牧師のつぶやき

どうして人間の性格は一人一人違うのだろうか。信仰者と不信仰者。肯定的な人と否定的な人。親切な人と意地悪な人。良い人と悪い人。正直な人と嘘つきな人。勤勉な人と怠ける人。大らかな人と心の狭い人。おしゃべりな人と聞き上手な人。憐み深い人と冷たい人…等々。クリスチャンの世界でも変わりなく色々な人がいるが、あなたはどのタイプか。同じ神様を信じているのにどうして祝福の差があるのだろうか。祝福も人によってその定義が違う。では神の祝福って何だろうか。考えてみたいものだ。聖書では多くの箇所で祝福が登場する。つまり、「祝福=幸せ」と言っても良かろう。あなたにとっての幸せの基準はどのようなものだろうか。これも人によって大きく違うと思う。私達の判断は聖書から見た方がいいだろう。なぜなら物質の祝福もあれば霊的な祝福もあるからだ。聖書が言っている事が正確ではないだろうか。詩篇はそのことを幸いシリーズで明確に示している。
①幸いな事よ。悪者の道に立たず、あざける者の座につかなかったその人。
②幸いな事よ。主の家に住む人は。
③幸いな事よ。その力が主にあり、シオンへの大路にある人は。
④幸いな事よ。そのそむきを赦され罪を覆われた人は。
⑤幸いな事よ。主に信頼を置き、高ぶる者や偽りに傾く者達に向かない人。
⑥幸いな事よ。あなたに信頼する人は。
これらの聖句を見ると、地上における幸せの秘訣は、自分の力や知識、学歴、財産に頼らない人と言えるのではないか。ではどのように生きる人か。何に頼る人か。もちろん何があっても神に頼る人であり、神と日々交わる人ではないか。その時に感じることの一番は、罪赦されたと感じた人ではないかと思う。罪ほど恐ろしいものはない。
ダビデは詩篇で次のように祈っている。
「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います(詩篇51:14)」
罪を「血の罪」と言っている。正に血を流すのが罪である。私は、救われる前はどうしようもない自己中心的な人間だった。自分さえ良ければいいという人生を送っていた。だから周りの方々に大きな迷惑をかけてしまったのである。しかし、罪の恐ろしさを知り、悔い改めて神の救いを受けた。その時から、私の心の中に罪赦された喜びと平安が与えられ、今は超幸せな人生を送っている。
神様に感謝!イエス様の十字架に感謝!ハレルヤ!

2021年10月31日 牧師のつぶやき

10月が終わる。今年は余すところあと2カ月となった。振り返るにはいささか早いかもしれないが、今年も色々なことがあった。良いことが多かったのかもしれない。しかし総括は早いのでもう少し待つとしよう。今、日本では衆議院の解散があり、総選挙たけなわである。私は自民党と公明党の議席が減ることを祈っている。もう少し野党が頑張ってくれて、緊迫した国会が開かれることを期待したい。今は圧倒的に自民党が強いので、弱者への政治がおろそかになり、強者に有利な政策がまかり通る社会になっている。弱者への思いやりがない荒れ果てた社会へ向かっているのである。つまり歪んだ政治が堂々と行われているのだ。「不正」と言う字を一つにすると「歪(ゆがみ)」という字になる。歪みは良くない。誰もが分かっていることだ。しかし日本の社会は歪んだままである。不正の無い政治が作られることを願う。
今、世界は非常に危険な状態にあると思っている。なぜなら信じ難いことが当たり前になっているからである。一つに男女平等が独り歩きするようになったことである。そしてあっと言う間に同性愛者が市民権を得た。ジェンダーが生き物の如くに社会に根を下ろしてしまった。イエス様の教えが完全に退けられている。スポーツの社会も女子たちの進出が激しい。一昔前は、ボクシングやレスリングは男子のスポーツだった。しかし今は、女子のスポーツにもなっている。又、陸上競技では、800m、1500mは女子競技にはなかった。1928年のオリンピックで、日本の人見絹枝選手が女子800メートルで銀メダルを獲得した。しかしその後、女子には800m競争は過酷すぎるとして中止になった。女子の体を気づかってのことであった。だが今は、女子の800m、1500m、5000m競技は当たり前になっている。しかも女子格闘技も盛んである。女子には女子の役目があり、男子には男子の役目がある。それが聖書(神)の教えだ。聖書こそ歪みを正す事の出来る唯一の書だ。アーメン。

箴言1:1~7
  これは、知恵と訓戒を知り、悟りのことばを理解するため、
  義とさばきと公正において、訓戒を受けて、さとくなるため、
  浅はかな者を賢くし、若い者に知識と思慮を得させるためのもの。
  知恵のある者は聞いて洞察を深め、分別のある者は導きを得る。
  こうして、箴言と比喩、知恵のある者のことばと謎を理解する。
  主を恐れることは知識の初め。
  愚か者は知恵と訓戒を蔑む。

2021年10月24日 牧師のつぶやき

長尾伸也牧師
ビブロス堂の開店記念セレモニーが行われました。事前に県内の教会やお世話になっている企業等に招待状を送っていましたが、全部で300枚ほど送ると聞いていたので、いつものことながら山内牧師やり過ぎ(笑)と思っていました。そんなに送ったら人が来すぎちゃうんじゃないかと思い心配しましたが、さすがイエス様!用意した椅子の数だけちょうどよい人数が集まって、平安で祝福された雰囲気の中で最後までセレモニーが行われて感謝しました。ハレルヤ!
ゴスペルシンガーのSakiさんと東江千鶴さんによる素晴らしい賛美で神様をほめ称えた後には、沖縄の宣教を何十年もの間担ってきた長老格の牧師によるメッセージや挨拶そして、いのちのことば社の社長もかけつけて挨拶をしてくださいました。長年信仰生活を送られ、個人、教会において伝道を実際に見てきた先生方の言葉にはさすがに重みがあります。神を愛し続け、魂の救いのために働き続けてきた人生の中での一つ一つの体験に裏付けされた言葉は、同じく神を愛したいと願う者の心に響いて来ます。その中で口をそろえて語られていたのは信仰書を読むことの大切さでした。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ10:17
「キリストについての色んな本を読んだことで色んな角度でキリストを見ることが出来るようになった」という話を聞いて、なるほど!と思いました。聖書を読んでも人それぞれ感じ方は違います。自分一人で聖書を読んでも理解できなかったみことばが、礼拝のメッセージを聞いていると「なるほど!そういう意味か」と理解できます。それはメッセンジャーがしっかり神様に聞いて、咀嚼して、伝えるからです。それと同じように、霊的に成熟した人たちそれぞれが神様に教えられた事を書いた本を読むことで、私たちは何時間も、あるいは何日も、何か月もそのみことばについて祈り、実行しなければたどり着けないような奥深い真理を簡単に知ることが出来るのです。そして、同じみことばでも人によって見る角度が違います。たとえば、先週の夕礼拝で私はマタイ25章34~40節から「神様が喜ぶ働き」というタイトルで私たちの側から神のために出来ることをメッセージしました。不思議なことに金曜日に吉田茂樹牧師の聖会で語られたメッセージは同じマタイ25章の35~40節でした。その内容は、神様の側から私たちを見たものでした。同じみことばでも見る角度が全く違うのです。いろんな本を読んでいろんな人の信仰にふれ、多角的に見ることで私たちのイエス様像はいよいよはっきりくっきりしてきます。そして、いのちのことば社の社長は、読み終わった本を誰かにあげれば、それが立派な伝道だという話をしていました。家族にもらった本を、もらってから37年後に読んで救われた人もいるそうです。自分の信仰のため、家族や友達の救いのため、信仰書を買いましょう!

2021年10月21日 牧師のつぶやき

衆議員が解散された。議長が解散を宣言すると異常な光景が起こる。自民党の議員達に多いのだが、一斉に両手を躍らせて3回「バンザイ―!、バンザイ―!、バンザイ―!」と叫ぶ。何回見ても本当に異常な光景である。国会議員ともあろう者達が喜びの声を上げる。それこそ本心を偽っていることであるし、皆がやるから仕方なくやる、としか思えない。なぜなら本当に解散が嬉しいのか、バンザイと叫ぶほどのことなのか、聞いてみたいものだ。もしかすると彼らにはバンザイの意味が分からないのかも?と感じざるを得ない。衆議院の解散は議員を失職することである。つまり首になったのである。首になって喜ぶ人がいるだろうか。これから激しい戦い(選挙戦)に突入するのである。それこそ死にもの狂いに戦わなければならないのだ。有権者に頭を下げて廻らなければならない。お金もたくさん使う。家族も巻き込んでの戦いをしなければならない。何故に、「バンザイ!」と言えるのだろうか。そのような議員さん達に何が期待できるだろうか。ただ言えることは、この日本には、なかなか良い政治家が出てこないということだ。本当に国民の為に働こうとする気概がある政治家が出てきて欲しい。一つだけ希望があるのが「れいわ新選組の山本太郎」である。彼にはこの選挙戦を勝ち抜いてほしいと心から願っている。祈っている。
私が天の父なる神様に長年祈り続けている事が幾つかある。だが一向に叶えられない。まず一番大きなことは日本のリバイバルである。沖縄のリバイバルである。多くの牧師達が、又、先輩の牧師達がずっと祈ってきている、しかし、リバイバルどころではない。逆に教会員が減ってきている。クリスチャンが減ってきているのである。又、一昔前(30~40年前)によく開かれていた超教派の聖会等が全然開けなくなったことだ。祈りとは逆に進んでいる。
もう一つは政治の件だ。政権交代を祈ってきた。公明党からの脱却だ。まだ自民党には希望があるが、創価学会をバックにしているから厄介である。公明党はサタンに用いられている政治団体だ。だから議席ゼロになるように祈っている。だが、これらの祈りはなかなか聞かれない。しかし私は諦めない。祈りは最高の武器だ。
何よりもクリスチャンは主に信頼しているから希望がある。確信、感謝、信仰がある。詩篇115:11 「【主】を恐れる者たちよ【主】に信頼せよ。主こそ助けまた盾。」アーメン。

2021年10月10日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

ライフセンタービブロス堂がグランドオープンを迎えました。たくさんの方が来店してくださって大盛 況でした。プレオープンのときには空いた棚が目立っていましたが、グランドオープンではかなりの 品物が揃いしました。グッズには特に力を入れていて、聖書カバーも棚いっぱいに並べてあってより取り見取りですし、T シャツやトートバッグ、アクセサリー、みことばの色紙などクリスチャンクリエイ ターの作品も充実しています。また、大型テレビモニターやマッサージチェアなども設置され、さらに居心地の良い空間になりました。いつの間にか「ビブロー」というかわいいマスコットキャラまで出来ています。まだ行っていない方はぜひ足を運んでみてください。このタイミングに合わせて緊急事態宣言が解除になったのにも神様の計らいを感じます。これはいったいどうなるんだ!と言うほど感染者数が増えたかと思うと、今度はかつてない減り方で急激に感染者数が減っていきました。「この減り方はちょっとおかしい」と思ったのは私だけではないと思います。何が起こってこうなったのかはよくわかりませんが、それが何であったとしてもすべては 神の御手の中で起こっていることです。 私はお店にずっといるわけではありませんが、それでも色んな人に出会います。私たちのユーチューブを東京で見ていたという人に出会い、初めてお会いしましたが友達に会ったようでとてもうれしくなりました。そして、もう一つ嬉しいのは久しぶりに会う人が多いことです。何年かぶりに会う兄弟姉妹もいましたし、以前に教会に来ていたけれど事情があって来れなくなってしまった人とも話が出来ました。この方はしばらくの間病気で苦しい思いをしていたそうです。体調が回復したものの今度は教会が遠くなってしまったので今は通えないとのことでしたが、送迎があることを伝えるとそれなら行けると言ってくださいました。私でもこの様な出会いがあるくらいですから、山内牧師 は懐かしい出会いがもっともっとたくさんあると思います。 新しい出会いもあり、再会もある。このお店は出会いの場になって、ここからクリスチャンの「何か」が生まれる場所になっていくんだなと感じました。イベントや商品や新しい伝道。献身者やカップルも生まれるかもしれませんし、一致や和解も生まれるでしょう。沖縄の教会にとってとても重要な場所になっていくのかなと思います。リバイバルのために用いられることを願います。
ヨハネ 17:21 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一 つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたが わたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」
ビブロス堂の働きを通して沖縄の教会が一つになっていくことを願います。すばらしいお店と、素晴らしい希望のスタートをお与えになった神様に感謝します。

2021年10月3日 牧師のつぶやき

10月に入った。良い月だとつくづく思う。大好きな月である。なぜなら私の誕生日の月だからである。(忘れないで)。しかし今年はもう一つ嬉しいことがある。ライフセンタービブロス堂のグランドオープンが10月9日、オープンセレモニーは10月22日に行う。記念の日が10月に新たに作られた。だからとても嬉しいのである。また一つの夢がかなった。大きな夢であった。しかもあっという間に出来上がった。そしてすべてが備えられたので、本当にびっくりしている。人材も資金も場所も溢れるばかりに満たされているのだ。こんな大きな祝福がありえるのだろうか。ハレルヤ!天地万物の神様は本当に何でも出来る神様だと何度も体験してきた。が、今回もその通りになった。だから私は詩篇の御言葉が大好きだ。特に幸いシリーズは最高だ。特に詩篇1章3節は私のためのものだ。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」私達は何をしても栄えるのだ。アーメン。
幸いシリーズを列挙してみる。その御言葉を信じて日々を感謝しながら歩もう。

①詩篇32:1 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」
②詩篇40:4「幸いなことよ。【主】に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。」
③詩篇41:1「 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。【主】はわざわいの日にその人を助け出される。41:2 【主】は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。」
④詩篇84:4「 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。」 

以上、主たるものを挙げてみた。幸いシリーズは詩篇で19篇ある。箴言で10章ある。新約ではマタイを始め41章ある。尚も主はこれでもかと私達を励ます。詩篇 135:4 「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」
神は自分の子供達を宝物と宣言されたのだ。だから否定的にならないように。出来ないと言わないように。日々主に感謝感謝ハレルヤ!

2021年9月26日 牧師のつぶやき

私達(神の子供)には大きな夢があり、希望があり、目標がある。身近な目標はすぐにでも実現できるものである。と信じるのだが…。あなたの目標は何か?その目標を実現させるためにどんなことをしているか。もちろん聖書を読み、祈りをもって神にすがっているはずだ。私はたくさんの夢を持っている。そして、それらは必ず実現できると信じ、希望を持っている。「青年よ、大志を抱け、キリストにあって」と北海道で叫んだのはクラーク博士であった。しかし今、私は「老人よ、大志を抱け、キリストにあって」と叫ぶ。夢や目標を持つのはとても良いことである。毎日が楽しくなるからだ。
アッシジの聖フランチェスコは、「私を平和の道具として用いて下さい」と神に願っていた。

聖フランチェスコの「平和の祈り」

1、憎しみのあるところに、愛を置かせてください。
2、侮辱があるところに、赦しを置かせてください。
3、分裂のあるところに、平和を置かせてください。
4、誤りのあるところに、真実を置かせてください。
5、疑いのあるところに、信頼を置かせてください。
6、絶望のあるところに、希望を置かせて下さい。
7、闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。
8、悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰める者にして下さい。理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求めさせて下さい。なぜならば、与えることにより人は受け取り、忘れられることにより人は見いだし、許すことにより許され、死ぬことにより人は永遠の命に復活するのである。
彼が最初に願ったのは大きなものだったが、神の御心に叶ったものではなかった。しかし、神は真逆の方向、最善の道に導いたのである。
神は常に私達の願いに耳を傾けて下さる。
「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか」(詩篇94:9 )
その通りである。私達の思いが良くても悪くても、神はすべて聞いておられるのである。とにかく年齢に関係なく主を信頼して願う事である。アーメン。

2021年9月19日 牧師のつぶやき

自民党の総裁選挙に4人が立候補した。しかも2人が女性である。自民党の総裁イコール総理大臣だ。初の女性首相が誕生する可能性が出てきた。ついに日本の政治が変わってきた。と思いたいのだが……、先進7カ国で、カナダでは半数が女性の閣僚で占めているのに対して、日本はわずか10%である。最低の女性閣僚の数である。話にならない。人口の半数が女性だから、当然半数の国会議員、及び閣僚を女性が占めてもいいはずだ。願わくば、貧困者と弱い女性達に目を向ける女性首相が誕生してほしいものだ。
聖書は重要な時に女性の活躍が記されている。ルツ、デボラ、ヤエル、エステル、マリア等々。数知れない女性達が神に用いられ、社会を変えている。彼女達は神に喜ばれる働きをしている。現代でも多くの女性達が、教会、家庭、職場、社会で用いられ活躍している。凄いことである。特に教会は女性の牧師が多く誕生し、社会の手本見本となっている。ですから女性の皆さんは、大いに希望を持って主を喜ばせることに全力を尽くしてほしいと願っている。主を喜ばせることがキリスト者の人生である。
「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(Ⅱコリント5:15)
聖書はそう教えるのだが、なかなかそううまくは行かない。なぜなら、頭では知っていて、信仰があっても、肉体は元気に生きているからである。夢も希望もあるしプライドもある。又、恥もあるし様々な欲望もある。だから簡単に自分の人生を諦めきれない。クリスチャンは皆イエス様の為に生きているつもりだし、イエス様を喜ばせる為に生きているつもりだ。が、実際のところ、問題も悩みもついて回る。時にはどうしていいのか分からなくなることもある。
ペテロはいつもイエス様の側にいた。12弟子の中では一番近くにいたのである。だからイエス様に平気で物が言えた。本人もそう自覚していたはずだ。又、誰よりもイエス様を愛していたと思う。だから、イエス様が「自分は苦難に遭う」と言ったりした時には「そういう風に言ってはいけません」と諫(いさ)めることが出来たのだ。彼だけがそうできたのである。しかし、イエス様は彼を厳しく叱った。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。何故にイエス様はペテロを厳しく叱ったのだろうか。私達はそのような聖句をどう考えればいいのか…。今回自民党の総裁選挙に立候補した4人も然り、結局は国民のことよりも己のことを優先しているのではないだろうか。本気で国民を思う政治家が出てきてほしいと願う。我らクリスチャンも本気でイエス様のために生きていこうではないか。

2021年9月12日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

ライフセンタービブロス堂がオープンしました。本屋とカフェが合体していますが、お店全体が、カフェっぽいオシャレな雰囲気で一般の人が来ても思わず「ステキですね!」と言いたくなるようなお店になっています。元の教会の会堂全体を利用していますから、とても広々としていて、車椅子の方でもストレスなく買い物をしていただけるようにと、棚と棚の間を通ったり、転回することが出来るかどうかを実際に車いすで試し、通路を広くとりました。レジカウンターにも車いすの高さに合わせた専用窓口があります。このカウンターは、100万円程する高級なものですが、なんと!タダでもらいました!ハレルヤ~!神様はいつでもすばらしいですね。また、気になる本があれば、コーヒーを飲みながら座って読むことが出来るように店内のあちらこちらに椅子が置いてあります。この椅子も社長の奈良蓮兄弟が一点一点選んできたこだわりのもので、座って本を読んでいる写真を撮ればインスタ映え間違いなしです。キッズスペースもあるので、お子様連れのお客様も安心してお買い物をしていただけます。子供たちが店内を走り回っていましたが、とにかく広いので、それはそれでOKです。「コーヒーもおいしいし、ゆっくり出来ていいですね」という声をたくさんの方からいただきました。イベントスペースもあるので、多くのクリスチャンに活用していただき、沖縄のクリスチャンの交流の場になることを願っています。
元々この建物はホテルでした。ホームレス支援施設エデンハウスが収容人数を大幅に越えてしまったので新しい施設が必要となり手に入れた物件でした。その一階部分を教会に造り替えて去年までそこで礼拝していたのですが、このたび素敵なお店に生まれ変わりました。雰囲気なども一般のおしゃれなブックカフェに対抗できるレベルです。しかし、このお店が本当にすごいのは、工事のほとんどを施設の住民、つまり、元ホームレスや刑務所出所者のみなさんで行ったということです。彼らの中には技術を持っている人も多く、すごい仕事をします。神様は道を踏み外した人を正しい道に導きます。曲がっているものをまっすぐにし、傷ついた人を癒します。そうやって人を造り変えるのです。そして、それぞれ造り変えられている途中ですが、神様は一人一人をご自分のために用いてくださり、一人一人の手を通して建物を造り変えたのです。完成したお店を見て蓮兄弟が「夢を見ているみたいだ」と言っていましたが、本当にその通り、素晴らしいものが出来上がったのです。
神様はあなたのことも造り替えてくださいます。そして、信じるならあなたは神の栄光を見ます。あなたが変わりたいと神に願い続けるなら、「夢を見ているみたいだ」という日がいつかやってきます。
主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。詩篇37:4

2021年9月3日 牧師のつぶやき

今日とっても嬉しいニュースが流れた。菅総理が総裁選に出馬しないとのニュ-スだ。政治好きな私にとっては晴天のへきれきだ。これで自民党・公明党の連立政権に泡を吹かすことが出来る。支持率が30%を割って来ていたが、菅さんが辞任に近いことを決断するとは夢にも思わなかった。しかし、野党に頑張ってもらわないと元の木阿弥に陥ることになる。何しろ人気のない野党の方々だ。野党第一党の立憲民主党の支持率が13%くらいではあまり期待は出来そうもないが、他に選択肢がないのだ。維新の会や国民民主党の輩は最低の政党だ。彼らよりはまだ共産党の方が良い。神様に祈って願っているのは「山本太郎」率いる「れいわ新選組」だ。戦後75年、今日までの傑出した日本の政治家の中で、「山本太郎」は唯一本物の政治家である。彼だけには期待が出来る。何故なら、彼は政策の中で「消費税廃止」を打ち出しているからだ。私達が買い物をする時に、毎回毎回とられているのが消費税だ。貧しい方々や中小企業には10%の消費税ほど厳しいものはない。私達一人一人が払っている消費税を計算してみたら、その重さがよく分かるはずだ。月に10万円の買い物をするとしたら、1万円を払わなければならない。1年にすると12万円だ。12万円ということは、例えば4万円の家賃を払っている人は、3カ月分の家賃を損していることになるのである。恐ろしい事ではないか。本来消費税は無くてもいいものだ。消費税以外にも私達はたくさんの税金を払わされているのだ。所得税というものがある。給料をもらう時に毎月引かれるものだ。他に、健康保険税、住民税、介護保険税、車の税金等々がある。又、固定資産税もある。挙げればきりがないが、とにかく税金を払い過ぎているのは事実である。あなたは生活を楽にしたいか。それならばもうすぐ衆議院選挙だ。消費税を無くそうと頑張っている「山本太郎」率いる「れいわ新選組」に投票しよう。
旧約聖書の士師記を見てみよう。
イスラエルでは良いリーダ-が登場すると穏やかな国となっていくが、このリーダーが死に、代わりに悪いリーダーが登場すると、民達は悪いことばかりをするようになっていった。あげくに、国はペリシテ人に支配されてしまい、民達は奴隷のごとく扱われていった。(士師記3:9~14)この士師記やサムエル記、列王記等々を読むと、いかに国のリーダーによって国民の生活が左右されるかが分かる。つまり、私達の生活は政治に懸かっているのだ。又、私達の人生も左右されることを知ってほしい。だからこそ真剣に考え、身近にある政治に関心を持って欲しいのだ。政治音痴の方々は今こそ目を覚まそうではないか。
アーメン。

2021年8月27日 牧師のつぶやき

アフガニスタンという国がある。10年前まで「タリバン」という超イスラムの原理主義者達が支配していた国である。女性を「物」として扱っていた。外出する時には顔を隠さなければならなかったし、教育も受けられず、子供達も学校に行かせなかった。超男性優位の国であったが、アメリカの介入で解放されてからは、ある程度は自由になっていた。しかし、今年になってアメリカ軍の撤退開始にあわせて「タリバン」が攻勢に出て、あっという間にアフガニスタン全土を支配下に置いてしまった。今や首都も陥落している。カブールの国際飛行場には、世界各国が自国の大使館員や関係者達を救出すべく、飛行機を飛ばしている。又、外国に逃げるアフガニスタンの国民が空港に殺到しているそうだ。日本も日本人の救出に自衛隊の飛行機を飛ばしたそうだが、一人も救出できなくて隣国のパキスタンに避難しているとのことだ。(8月27日現在)日本人は大使館員とジャイカ(JICA)の方々で、約500人位カブール市内で待機しているとのことだ。せっかく空港まで救出の飛行機を飛ばしたのに空振りに終わっている。なぜかと言うと、状況判断が甘くて段取りが悪すぎるからだ。危機管理が全然なっていなかったのである。隣国の韓国は、素早く動いて、450人の9割に当たる380人を救出したそうだ。方法は、民間のバスをチャーターして、市内からアメリカ軍に護衛を頼んで空港まで運んだそうだ。見事なまでの作戦ではないか。かたや日本はどうか。何の手も打てずに国民の命を危険な状態に陥らせている。これがいつもの日本人のやり方だ。時の総理大臣は、「国民の命と財産を守る」と口では言うが、一向に守ったためしがない。国民もそろそろ目を覚まして、こんな政治家をあきらめてもよさそうだが…。いつの日になるのやら…。気を晴らす為にはつぶやくしかないのだ。あぁ!悔しい。
私達は、今がどのような時か、聖書を通して知るべきではないだろうか。どうしてコロナウイルスは祈っても祈っても収まらないのか。祈っても聞かれないのは何か理由があるはずだ。神は語られる。
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(Ⅱコリント13:5)」
私達は今一度、信仰を見直すべきではないだろうか。「本当に終わりの時代に入っているとしたら、今のままでいいのか…」と、自分自身の心を直視した方が良いと思う。たまには教会の掃除やママ食堂の手伝いにも参加してみて下さい。
天に宝を積むことになります。ハレルヤ!

2021年8月21日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

お盆に入りました。毎年この時期になるとスーパーにはお供え用の食品や線香ウチカビなどが並んでいます。
特に食料品は特設コーナーが設けてあり、オードブルやフルーツの詰め合わせなど普段は置いていないものがたくさん並んでいますが、よく見るとどれも割高でびっくりします。 聖書の中で、神殿に礼拝をする為に来る人たちが捧げるための動物を売る人や、いろんな国から集まって来る人たちが捧げ物を買うための両替で大儲けをしている人たちに対して、イエス様が激怒して暴れるシーンが出てきます。観光地で入場料を払って中に入る100円の飲み物が150円とか200円とかで売っていますが、人の必要につけ込んで儲けるのは、今に始まったことではないのですね。しかし、それが本当に必要なものであれば仕方ないと思いますが、お盆の場合は、必要でない物のためにお金を使い、労力を使っているのです。
仏壇はただの板切れです。それは人が作ったものです。人が木を切り、道具を使って形にし、朱に塗り、文字を書いていきます。イザヤ書44章にその様子が書かれていますが、時代は進み今は様々な電動の工具を用いて作られます。イザヤ書では偶像を作る人のことを腹が減ると力が出ないと書かれていますが、私が刑務所で一緒だった人で仏像を作っている人がいましたが、その人は覚醒剤をやりながら眠らずに作ったそうです(笑)。覚醒剤をやると集中して良い仏像ができるそうです(笑)。仏壇も人が作ったものです。その中に魂は宿っていません。人の手によって作られたものに命はありません。それなのに生きていてご飯を食べるかのごとく、せっせと供え物をするのです。やらなければいけないと教えられ、信じ込んでいるからです。それが必要なことであると信じているからです。そして、その必要につけ込んで儲ける人たちがいるのです。とても虚しいことだなと思います。人が作ったものには命はありませんからそれをいくら拝んでも、拝む人を助けてはくれません。
しかし、私たちの神であるイエス様は生きておられます。私たちがイエス様を呼び求めるとイエス様は答えてくださいます。イエス様は私たちを助け、私たちと共に歩みたいと願っておられます。全ての人間が虚しい偶像礼拝をやめて、生きておられる真の神イエスキリストを信じて生きていくことを願っておられます。イエス様の為にしたことは決して無駄にはなりません。私たちはこの真理を知っているのですから、周りにいる人が一人でも多くこの事実を知り、虚しい生き方から救われるように祈り、伝道していきましょう。

2021年8月8日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

先日、一回目のロナワクチンを摂取してきました。これまでにない広がり方で感染が急速に拡大していて、どこで感染してもおかしくないという状況の中、ワクチンを打ったことで安心する人は多いでしょう。ウィルスは目に見えません。目に見えれば防ぎようがあるけど、どこにあるのか、だれが持っているのかが分からない。今日健康である自分が明日も健康かどうかわからないという不確かさが恐れを生みます。でも、この不確かさは今に始まったことではなく、コロナウィルスの感染が広がる前からありました。朝元気に家を出ても、一日のうちに何が起こるか人にはわかりません。突然の病気や事故にあうこともありますし、突然会社が倒産する事もあるかもしれませんが、普段から、今日病気になるかも。今日事故に遭うかもと恐れてびくびくしながら生きている人はほとんどいません。←私は今日捕まるかもとびくびくしてましたが(笑)。ところが、今のコロナウィルス感染急拡大は、誰もがその不確かさを自分と結びつけて考えざるを得ない状況です。

ワクチンの予約をするホームページで、空き状況のカレンダーを見ると7月中旬に、この日何本、この日何本といくつかの空きがあったのですが、曜日が表示されていなかったので、何曜日か確かめるために一度スマートフォンのインターネットを閉じて、カレンダーを確認してからもう一度予約ページを開くと、たった今空いていた7月の予約がすべて埋まっていました。すごいスピード感で自動車教習所の予約を思い出しました。たった1分か2分遅れただけで、予約が3週間遅れてしまいました。目に見えない恐怖を何とか治めようとみんな必死なんだろうなということを考えました。私はこう思います。ワクチンは打ったほうがいい。後遺症が残る危険性もあるかもしれないけど、それでも、自分と周りのために打ったほうがぜったいに良いと。出来ることはやっておいたほうが安心です。なので私も摂取しました。しかし、コロナにかかるか、かからないか、後遺症が残るか残らないかという不確実なことよりも、もっと大切なことがあって、それが一番重要だと思います。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。Ⅰペテロ1:23~22

私たちの一生は草の様で、はかなく不確実です。ですが、私たちは確実なものを持っています。それは神のことばです。神のことばを受け入れ、イエス・キリストを信じ新しく生まれた私たちは、どんな状況の中にあっても平安が与えられます。この世がひっくり返っても、私がひっくり返っても、神のことばはびくともしません。この神のことばに頼る人生こそが、確かで安心な生き方です。

2021年7月25日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

聖書基礎講座の水曜日を受け持つことになり、まずは創世記の天地創造を担当させてもらいました。カリキュラムに沿って体系的に教えるのは私にとって初めての体験です。信仰の基礎、聖書の基礎を身に着けることができるためには、学びが理解できる内容であること。教わったことがその人の内にとどまることが大切だと思います。ですから、この箇所で学ぶ一番大切なことは何だろうか?と考えて、色々調べたり、テキストを作っていきながら、無駄だと思うものは省いたり、どうすれば伝えられるだろうか?と考えて、思いを巡らせて準備をしなければなりませんでした。創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」
普段あまり深く考えずなんとなく読んでしまいがちですが、腰を据えてじっくり読んでいきます。たったの15文字のみことばも、参考書や関連聖句を引いて調べていくと一つ一つの単語に深い意味があることがわかってきました。言っていることはとても単純です。神様が語っていること以外の意味はありません。しかし、神様が語っていることはとても深いのです。「なるほど。そういうことだったのか!」今までも知っているつもりだったことも、改めて学びなおしてみると発見がいっぱいありました。神様について何かを見つけると霊が喜びます。神様のほうでも普段隠れているけど、見つけられることを喜んでいる気がします。子供の頃かくれんぼをして、見つからないように隠れるけど、見つからないでいると寂しかったことを思い出します。エレミヤ29:13,14「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見いだされる。」神様を見出して、神様を知るわけですが、聖書で「知る」という言葉は、単に知識として知る以上の意味があります。それは体験的に知っていくことであって、その人の一部となっていくことです。今回の学びで、神様がこの世界を創られたということを今まで以上に知ることができたのは大きな恵みでした。これ(一口メモ)を書いている今、台風が強い風を吹かせていますが、この風の音や、建物の揺れに神様を感じるのです。大雨が降ったり、風が強くて外に出られなくても、そこに神様を感じると、それは喜びに代わります。この後の予定を考えて、雨風が強かったら困るなと思ったとしても、神様が吹かせていると思うと平安になります。このような喜びや平安は、神様について知ろうと捜し求めた結果、自分から求めて学んだ「知識」以上に、神様の側から与えられるものです。神様は生きています。
そこで、普段何となく読んでしまうみことばを、たまには立ち止まって、掘り下げて、味わって読んでみてはいかがでしょうか?きっと「知る」ことができますよ。神様はあなたに見つけられるのを待っています。

2021年6月27日 牧師のつぶやき (長尾伸也)

先週の火曜日、沖縄べタニヤチャーチでは、平田先生を中心にボランティアの方々が集まってママ食堂の準備が行われていました。私は夕方那覇まで弁当を運ぶことになっており、それまでは山内牧師のとなりで他の仕事をしていました。山内牧師はいつものように、あちこち電話をかけています。選挙の件、工事の件、ママ食堂の件、教会の件・・・そして、刑事にも「〇〇さんを何とか釈放出来ませんか?」と電話していました。どうしてここまでやるのでしょうか?
もう少しでママ食堂に出発というときに牧師から声をかけられました。「明日の昼までに罰金10万円を持って引き受けに行けば〇〇さんは釈放される。昼までに名古屋に着く方法を一緒に考えてほしい」時間内に着く名古屋空港行きの便がないため、かおり先生が大阪行きの飛行機のチケットを探し、私が電車の経路と時間を調べることにしました。翌日の便では間に合うかわかりません。 「遅れましたごめんなさい」では〇〇さんは刑務所に行くかもしれません。時間はありませんでしたがその日の便を探しました。その日の夜の飛行機がとれたので、それに合わせて二泊三日のスケジュールを立てました。山内牧師は忙しい中、名古屋に行こうとしています。どうしてここまでやるのでしょうか?
「私が行きましょうか?」思わず口に出ました。人の役に立って旅行もできる(笑)。とても良い考えに思えました。しかし、その時すでに夕方になっていました。その後那覇まで弁当を運び、南城市の自宅まで帰って着替えを用意しないといけません。しかも夕方なので道が混んでいます。時間がギリギリです。「神様助けて!間に合いますように」。必死で神様にお願いしました。
あきふみ兄が送迎をしてくれたので、助手席でその日のホテルの予約をしました。こんなに時間に追われたのは久しぶりですが無事に飛行機に間に合いました。ハレルヤ!大阪に着きホテルにチェックインしたのは夜の12時少し前でした。ほっとしたのもつかの間、手違いがあったら困るので早朝の電車で名古屋に向かいます。乗り継ぎのたびに乗り場を探してうろうろしました。スマホで調べた通りにはいきませんでしたが、何とか朝10時頃検察庁にたどり着いて手続きを済ませました。14時頃彼は釈放されました。釈放された彼の安心した顔を見た時、自分が刑務所で引き受けをしてもらった時のことを思い出し、「どうしてここまでやる」のかが分かったような気がしました。
「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」
ローマ12:15

2021年6月18日 牧師のつぶやき

何故に日本沖縄には政治に興味を持たない人が多くいるのだろうか。平均の投票率は正式には分からないが、50%を越えればいい方だろう。ひどい所は30%台もある。つまり、国民の半数、若しくは三分の一の方々しか投票しないのである。特に女性の皆さんは政治に興味を持てない人が多い。新聞を読む女性も少ない。何故か分からないが……。世間や社会に興味がないのかもしれない。しかし、この現象は非常に怖いことだと知ってほしい。なぜなら権力志向の政治家にとっては非常に好都合だからである。日本の政治家達がいつも唱えるのが「国民の命と財産を守る」である。だが、彼らは明治時代からこの素敵なキャッチフレーズとは真逆なことを行ってきた。つまり、嘘をもって国民の命と財産を奪ってきたのである。日清戦争、日露戦争では多くの若者達が兵士となって戦地に赴き、戦死、あるいは瀕死の重傷を負ってきた。第二次大戦では東京大空襲をくらい、広島、長崎は人類初の恐ろしい原子爆弾を浴びた。沖縄は地上戦に巻き込まれ、16万人が犠牲になった。青年達は特攻に駆り出され、命をもって体当たりを余儀なくされた。このような未曾有の大惨事を体験したにも関わらず、又、「戦争好き」で「お金が大好きな政治家達」が頭を持ち上げ、戦争の準備を始めている。中国を仮想敵国に置いて国民をあおり、軍備を強固にして沖縄の宮古や八重山に配置している。これらのすべては政治家達が行っているのである。彼等は国民の財産を狙う「権力」と「お金大好きな人達」である。私達は二度と騙されてはいけないのだが、残念なことに、政治に興味を持たない人々によって、彼らが選ばれているのが現実である。だからしっかりと目を覚ますことが大事だ。
聖書にも「お金大好きな指導者達」が登場する。彼らは正に今の日本の政治家達の姿そのものだ。 「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。(ルカ 16:14)」
このパリサイ人達は、ユダヤの国民を支配し苦しめていた。多くの指導者達が律法と権力で支配し、搾取していたのである。イエスは敢然と彼らに立ち向かって行ったのだが、十字架にかけられたのである。しかし彼らだけが悪いのではない。彼らに従った国民も多くいたのである。イエスの十字架をあざけった人達である。
「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。』(マルコ15:29~30)」
なんと今の日本の国民にそっくりではないか。私達は賢いクリスチャンでありたいものだ。アーメン。

2021年5月22日 牧師のつぶやき

日本のコロナが中々収まらない。又、沖縄も「緊急事態宣言」に入った。礼拝にも影響が出る。非常に厄介なことだ。天の神様に祈っても明確な答えは返ってこない。なぜ、天の神様は黙っているのだろうか。何か大きな理由があるはずだ。ただ言えることは一つ。全クリスチャンが、諦めずに心合わせて祈り続けるほかないだろう。コロナ感染の原因の出どころは、酒が伴う飲食である。
この辺りに神の怒りがあるかもしれない。神を無視し、十字架にかかったイエスを無視し、助け主の聖霊をないがしろにして、多くの人が毎日酒に酔う始末だ。これは考えるところではないだろうか。
「酒に酔わずに聖霊に酔いなさい」とパウロは言われた。
「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされ(酔い)なさい。(エペソ5:18)」
ペンテコステの月に、私は、ただひたすら、聖霊が火を持って私達の上に降ることを願う。「炎のような舌が一人一人の上に降った(使徒2:3)」とある。何という神の憐みだろうか。何という幸せだろうか。その恩恵にあずかった方々は、祈っていた120人の弟子達だった。彼らはイエスの教えに従って、毎日一緒に祈っていた。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが…(使徒1:14~15)」 聖霊に満たされて火を受けたら、私達は力を帯びて変わる者になるだろう。そして、弟子達みたいに凄まじい働きをするようになると思う。学問も無く、学歴も無く、誰からも尊敬されずにいた弟子達が、素晴らしい働きをする者に生まれ変わったように、私達も異言を語り、預言をし、大胆にメッセージを放つ者になるはずだ。その時は、全ての病が癒され、悪霊は追い出され、依存症は解放され、教会は人々で溢れるだろう。だから私達は大きな希望が持てるのだ。私の夢も、あなたも夢も実現することになる。そして沖縄のリバイバルを体験することになる。何よりも嬉しいのは、現代の病院(医者達)では手に負えない病気が、癒され解放されることによって、自由になって新しい人生を歩む人々を見るようになることである。ハレルヤ!
それがもう間近に来ている。信じる者は「アーメン」と答えよう。
マルコ16:17~18
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」アーメン。

2021年5月15日 牧師のつぶやき

世の中では何事にも方程式がある。方程式とは一口で言うと「= (イコール)」のことを言う。つまり、「何々をすればこうなる」と言うとことである。例えば、「イエスを信じる=永遠の命を得る」アーメン。この事を言うのである。「クリスチャンは皆、幸せ者である」と断言できるはずだ。そのことは次のように確信できる。「最大の幸せは死後の世界を知ることである」。死んだらすべてが終わりと思うか、それとも、霊の第2の人生があると信じて天を見上げるか、のどちらかである。クリスチャンは皆、希望を持って天を見上げている。だから最高に幸せ者なのである。たとえこの地上で財産を持っていても持っていなくても…、結婚していてもしていなくても…、成功しても失敗しても…、金持ちでも貧乏でも…、強くても弱くても…、勝気でも内気でも…、家族があってもなくても…、社長であっても平社員であっても…、etc. クリスチャンは皆、大成功者である。なぜなら必ず天の国に入れるからである。アーメン。しかし、なるべくはこの地上でも幸せになり、楽しい人生を歩みたいものだ。そのためには揺るがない「神の方程式」を身に付けることである。
聖書はその基礎である。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(Ⅱテモテ3:16)」
このように、聖書は、聖霊様が働いて人に書かせた書物なのである。聖霊様の働きを良く知ることは地上で幸せになるための秘訣である。クリスチャンでありながら自我を捨てることが出来ない高慢な人はごまんといる。彼らはなんとか天の国には入れてもらえるだろうが、果たして、この地上で幸せに、平安に生きることができるだろうか。答えは否である。では、何故に人は高慢になるのか。その大きな理由は「人から褒められたい」の一点にあると思う。このような人は聖霊の助けを求めない。また聖霊を一切気にしないし、見向きもしない。可愛そうな人達である。
地上で幸せな人生を歩む秘訣は、日常生活を聖霊様中心に過ごすことである。
7つの方程式を述べよう。
①聖霊の働き=地上で最高の幸せ者になる。(勝利者になる)
②聖霊に挨拶をする=平安を得る。
③聖霊を歓迎する=希望に満ちる。
④聖霊を大事にする=成功者になる。
⑤聖霊に依り頼む=問題の解決を体験する。
⑥聖霊にすがる=へりくだる人になる。
⑦聖霊に感謝する=御霊の実を結ぶ。
この地上で、幸せ者、楽しい人生を送る者になろうではないか。アーメン。

2021年5月9日 牧師のつぶやき

今日は「母の日」である。日本には色々な日があるが、その中で一番有名な日は「母の日」であろう。それに続くのが「子供の日」、そして「父の日」である。子供達は国の宝である。なぜなら私達の老後を見るのは子供達であるからだ。だから「子供の日」も大事にすべきだと思う。この日本では、40年ほど前から少子化現象の一途を辿っている。このままだと老人だらけの国になりかねない。考えるだけで恐ろしくなる。「父の日」も存在はするのだが、「母の日」には到底及ばない。当たり前と言えば当たり前だろう。何しろ父親達(男達)にとっては毎日が楽しい日であるからだ。この世は男中心の世界だ。父親達(男達)は、仕事の後は家に直行するのではなく、1杯飲みに行くのが常である。1杯だけであればいいのだが、それがついつい2杯、3杯、…となり、あげくには、はしご酒になってしまい、家から遠のいていくのである。「母の日」はアメリカから始まった。1907年5月7日(日曜日)、アンナ・ジャービスという方が、教会で亡き母を忍んで追悼会を持った際、母親が好きだった白いカーネーションを参加者に配った。それが母の日の起源となった。日本でも1949年(昭和24年)以降、毎年5月の第2日曜日に行うようになったのである。今ではとても大事な行事になっている。何よりも教会が起源というのが嬉しいではないか。神様は聖書の中で「あなたの父と母を敬え」とクリスチャンに命じている。
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20:12)」
これは偉大な神様の御言葉であるから、心して胸に刻む必要がある。人は誰でも母の胎内から生まれた。約10か月間、母のお腹の中にいる。この胎盤は凄いと思う。この中ですくすくと成長していくのである。超不思議な出来事である。赤ちゃんにとってはこの胎盤は天国である。母親に愛され、力強く守られている。ただひたすら母親から一方的に栄養分が送られてくるのだ。自分で何もしなくてもいいのだ。ただ時を待っていればいいのだ。私達クリスチャンも同じだ。天の父なる神様の愛によって「聖霊様」が贈られた。「働き主なる神、助け主なる神、支え主なる神」、これが聖霊様である。聖霊様が私達の人生の全てに関わって下さるおかげで、私達は豊かな人生が送れるようになったのである。聖霊様を贈ってくださった天の父なる神様に心から感謝します。聖書には「母なる神様」は登場しない。何故だろうか? イエス様も男である。「母なる神様」も登場してもいいと思うのだが…(笑)
「母の日」おめでとうございます。祝福します。
「主はシオンからあなたを祝福される。(詩篇128:5)」アーメン。

2021年5月1日 牧師のつぶやき

5月に入った。月日が経つのがとても早いので本当に嫌になる。もう少し遅くしてほしいものだ。1日が26時間位欲しい。皆さんはどう思われるだろうか。そのような願いが叶えられたとしても、しばらく経ったら、又、同じように、「もう少し日を長くしてほしい」と思うのではないだろうか。なぜ、このように感じるのか? それは、多くの時間を無駄にしているからではないかと思う。私自身、1日をどのように過ごしているのか、時間の使い方を少し考えてみた。毎朝4時に起きて(たまには3時半もある)早天祈祷会に行き、7時30分まで祈る。軽く朝食を取ってから、方々へ電話をかけまくる。又、かかっても来る。ほとんどが仕事の件だ。あれこれ担当者に指示をする。それから、やっと机に向って1日のスケジュールを確認。事務方や長尾牧師に仕事の指示とチェック。
そして現場の巡回へと出発。日によっては、来客の対応に追われることもしばしば。隙間時間はできるだけ考える時間を持つようにしている。時間が速く進むので油断が出来ない。1日という時間を有効活用しようと自分自身に厳しくするので、勢いあまって他人にも厳しくなる。それは反省している。
5月はペンテコステの月である。私は牧師になって以来、いつも、「ペンテコステ(聖霊降臨)が起こるように」と期待を持って祈り続けている。今年もこのペンテコステの時期が来たので、聖霊の働きを大いに期待して、首を長くして待っている自分がいる。三位一体の神様の「聖霊様」だけが私達と共に働かれるお方である。聖霊様のおかげで私達は良い働きが出来るのである。私はクリスチャンになって31年になる。その間、今日までに、幾度も外国に行く機会が与えられた。リバイバル真最中のアルゼンチンにも行った。又、アメリカ・ハワイのメガチャーチ、中国の信仰に燃えている信徒達、韓国の断食祈祷院、台湾の少数民族の信仰、インドの売春街で命がけで少女たちを助ける牧師、……等々を見てきた。イスラエルには2度も行き、イエス様の足跡をたどった。一昨年は、カナダに行き、リバイバルの火を持ち帰ってきた。このように多くの国々を回ってきて分かったことは、日本が、一番クリスチャンが少なく、教会が冷めているという現実である。本当に残念である。
「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒の働き2:4)」
聖霊は私達の人格を変えて下さる。全き新しい人に変えて下さる。人の目を気にしない人にして下さる。信仰に熱く燃える人にして下さる。
今月(ペンテコステの月)は、特に、「早く、沖縄に、日本に、世界に、リバイバルが起きますように…」と期待を持って、強く祈る月にしようではないか。アーメン。

2021年2月26日 牧師のつぶやき

マタイ24:12に「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」とある。まさに全世界がその通りになっていると感じる。特に政治家達の不法はひどいものがある。ロシアのプーチン大統領、中国の習近平は国民を圧政下に押し込めている。ミャンマーでは軍人達が政治を乗っ取ってしまった。数え上げればきりがない。では日本はどうか。安倍政権から菅政権に移行したが、相も変わらず官僚達と政治家の癒着がひどい。特に官僚達の嘘には辟易する。政治家達も賄賂を平気で受け取るようになっている。有名な言葉に「官僚が国を滅ぼす」とある。その通りになりつつある。安倍政権の時は、奥さんがしゃしゃり出てひんしゅくを買った。菅政権では長男が官僚達を賄賂で陥落させている。かつてなかったことである。又、マスコミ(大手の新聞、TV)も政治家達とつるんで国民を騙すようになってきた。いつか来た道に戻って来た。恐ろしい社会になりつつある。大昔から社会の敵はマスコミだった。いつも嘘をついて、時の権力者とつるんで国民を騙してきた。今、又そのような時代になってきた。
しかし、何よりも情けないのが国民であろう。このように政治家達にいいようにやられても自民党を支持している。「実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。(Ⅱコリント11:20)」聖書の言う通りだ。もう無知を通り越して「一億総白痴」状態ではないか。あきれて愚痴も出ないくらいだ。イエス様の時代もまさにそのようだった。ユダヤ教の聖職者達はローマの権力を利用してイスラエルの国民から搾取していた。特に律法学者や祭司長達は旧約聖書とローマ政府を利用してイスラエルの国民を縛ってきた。十戒を自分達の都合のいいように変えて大きく枠を広げたのだ。そして特権階級を作り上げた。そのような時にイエス様が登場した。そして彼らに厳しい言葉を放った。「わざわいだ」を連発して指導者達を糾弾した。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。(マタイ23:13)」教会とて例外ではないと思う。私達はよくよく注意してクリスチャンの道を歩まなければならない。イエス様から「わざわいだ」と言われないようにしよう。アーメン。

2021年2月13日 牧師のつぶやき

海外では日本のニュースは注目度が低い。しかし今回は少し違うようだ。今、日本が世界的に注目を浴びている。昨年、日本で開催されるはずだったオリンピック&パラリンピックが、コロナで1年延期になり、今年の7月に行われることになった。このオリンピックは、国の威信をかけて開催するのが当たり前になっている。だから、国の政治家や関係者達は、大金を掛けて開催の成功に血まなこになって奔走している。この事(大金を掛ける事)はとっても問題だ。彼ら(企業家などの関係者達)は皆、強欲で見栄のかたまりの連中で、政府から金をゆすり取っている。誰ひとり正常な考えを持つ者はいない。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。(ローマ3:10~11)」
その証拠に、彼らは今ある競技場を使おうとはしない。世界中から来る選手や観客に、「日本はいい国だよ。お金持ちだよ。」と見せびらかす為に、すべての競技場を新しく建設している。だから、今回のオリンピックの総予算は1兆円を超えている。特に建設会社や上場会社は、ほくそ笑んで「オリンピック様様」と聖火を拝んでいるそうだ。オリンピック会長の森さんが辞任した。女性蔑視の発言をしたので、追い込まれて辞任となった。特に、外国の女性リーダー達の強い批判に政府も耐えられなくなった。これ位の批判は軽いと思っていただろう。「やがて嵐はおさまる、しばらく静かにしておこう…」と。今迄がそうだったから。日本国内だけであれば、それも通用しただろう。日本人は「長いものには巻かれろ」の精神が旺盛だ。しかし、今回は外国も相手だ。何しろオリンピックだ。世界が相手だ。そう簡単にはいかなかった。「女性を馬鹿にするな!」ということだが、果たして彼らの教訓になっただろうか。特に女性の皆さんが怒ることを望む。聖書には、勇気と知恵に満ちた女性の立派なリーダー達が登場する。ユダヤ人のスパイをかくまったラハブ、女預言者デボラ、シセラの脳天を打ち砕いたヤエル、アビメルクの頭にひきうすを投げた名もなき女、親孝行のルツ、ユダヤ人を救ったエステル、ダビデの妻となったアビガイル、サムエルの母ハンナ……等々。名を上げればきりがない。何よりも凄いのが、イエスの母マリアだ。彼女はイエスの昇天後は、弟子達を束ねて祈り会を導いている。現代でもキリストの教会で活躍する女性は多い。又、女性無くして教会は存在できない。人は誰でも女性から生まれてくる。だから、女性を尊敬し、愛さなければならない。特に障害児を育てている母親は凄いと思う。我が教会も役員の半数は女性だ。ハレルヤ!アーメン!

2020年12月4日 牧師のつぶやき

今年もついに12月が来た。一年はあっという間だ。例年の今頃は、クリスマスや年末年始にかけての計画等をして、一年の中で最も忙しく、又、楽しい時期でもある。しかし、コロナの影響で、これまで体験したことのない寂しい年末を迎えることになる。来年がどうなるかは誰にも分からない。私達はただひたすら主にすがるしかないだろう。このような時に、クリスチャン(神の子)の偉大さを見ることが出来る。なぜなら神は、自分の子供達に最高の幸せを計画しておられるからだ。聖書の御言葉でその約束を知ることが出来る。

黙示録から7つの約束を見てみよう。 

1. 黙示録1:3 「この預言の言葉を朗読する者と聞いて守る者は幸いなり」
聖書を声に出して読むこと。聞いたら実行すること。そして、その仰せを守ることである。難しいことを神は私達に命じない。
2. 黙示録14:13 「今から後、主にあって死ぬものは幸いなり」
一般の人の死は悲しみだけが残る。しかし、私達神の子の死は、労苦の人生から解き放たれ、永遠の安らぎに入るのである
3. 黙示録16:15 「目を覚まして着物を身に付けている者は幸いなり」
霊の着物を着ること。それが恥を覆うことになる。裸の王様にならないで。
4. 黙示録19: 9 「子羊の婚宴に招かれている者は幸いなり」
偉大なる神の祝宴に招かれるものは最高の祝福である。
5. 黙示録20: 6 「第一の復活に預る者は幸いなり」
千年王国の約束である。私達は王になって民を治めるのである。そして死も手の届かぬものになるのである。
6. 黙示録22: 7 「この書の預言の言葉を守る者は幸いなり」
聞くだけの人ではなく、行いは主を喜ばすことである。「行いのない信仰は死んだ信仰である。(ヤコブ2:17
7. 黙示録22: 14 「自分の衣を洗う者は幸いなり」
キリストの十字架の血によって、悔い改めて自分を清める者は天の門に入れる者である。

サタンは常に私達の祝福を奪おうと狙っている。特に新会堂建設には多くの兄弟姉妹方が攻撃を受ける。そして嫌な気持ちを抱かせる。だからこそ、主にひたすらすがりつき祝福を逃がさないようにしてほしい。これから新しい会堂での生活が始まる。皆が7つの祝福の約束を握ってほしいと願う。アーメン。

2020年11月15日 牧師のつぶやき

アメリカの大統領選挙の投開票が終わって一週間になるが、まだ誰が勝利者になるか決まらない。トランプ大統領が敗北宣言をしないからだ。不思議な国である。これが世界をリードする先進国のトップであり、クリスチャン国と言われている国か?と疑いたくなる。大きすぎるのも良くない見本かもしれない。何事も大きいからいいとは限らない。企業でも組織はあまり大きくない方が良いと思う。大きいと腐敗の温床になりやすい。一番いいのが、「適当」だということだ。「適当」という言葉は最高だ。「いい加減」という言葉も最高だと思う。その意味を調べてみたら、「相当な程度に達しているので、ほどほどのところで終わってほしいさま」とある。「デタラメ」ということではないはずだ。
大きい国は、アメリカをはじめ、ロシア、中国、インド、ブラジル等々…と続くが、いい国は少ない。又、良き指導者もほとんどいないと思っている。
企業もそうだと思う。大きい夢を持つと世界一を目指そうとする。そうなると社員が可愛そうになる。仕事、仕事と明け暮れるようになり、家庭を顧みることが出来なくなってしまうからだ。
聖書に登場する選民の国イスラエルは、とても小国だ。日本の四国ほどの面積しかなく、人口も1200万人くらいである。日本の十分の一だ。しかし、いつも世界の話題になっている。インターネット関係では世界一だ。又、世界の金融を支配しているとも言われている。だから、「ユダヤ人が世界を動かしている」といっても過言ではない。何故にこれだけ騒がれるのだろうか。こんなちっぽけな国なのに…。日本には世界的な大企業がたくさんあるが、彼等を支えているのは東京、大阪の「町工場」だと言われている。小さな、小さな工場だ。しかし、なくてはならない工場だ。聖書でイエス様は、「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。(ルカ12:32)」と弟子達に言われた。
当教会は12月13日に献堂式がある。本当に小さな群れだ。100人にも満たない兄弟姉妹達だ。しかし、神の力によって、又、憐みによって、でかい会堂が与えられた。でかい図体を支えるには多くの資金が要るが、私は何も心配していない。愛する神の家族がいるからだ。皆が力を合わせれば岩をも打ち砕くことが可能だ。そして、皆の信仰を一つにすれば不可能なことはないと信じている。主が来られる時まで、勝利の旗を掲げて前進あるのみだ。
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともにおられるのだから。(ヨシュア記1:9)」と主から励ましの言葉が与えられた。ハレルヤ!

2020年11月8日 牧師のつぶやき

今、日本のトップニュースはアメリカの大統領選挙だ。他国の大統領なのに、さも日本のリーダーを選ぶ選挙みたいだ。日本のマスコミは本当におかしいが、日本の首相選びの何倍も楽しいのも事実だ。何よりも、とても異色のトランプが超面白い。物事にハッキリと意見するし、話がとても分かり易い。政治家は普通、嘘つきが多いが彼は嘘をつかない。ただ人を強烈な言葉で批判するのが得意なだけだ。あまり良い事ではないが…。しかし彼は神様が喜ぶことをした事には間違いない。政治家ほど嘘つき(腹黒)は世の中にいない。詐欺師の方がまだいいと思うがどうだろうか。
先週は宮古島に行った。宮古の拘置所に留置されている青年に会う為だ。保護観察所の許可がやっと下りたので面会が出来た。初対面だが、ハキハキして、なかなかの好青年だった。何故にこのような方が犯罪に手を染めるのか理解に苦しむ。彼は、知念の刑務所で同房だった方から私の事を聞いて手紙を書いたとの事だった。真面目に努めていたら宮古に移されたそうだ。来年の夏頃には刑期も終えるので、「朝日のあたる家」での生活に期待しているそうだ。彼は本当に真面目に見える。しかし、人は面だけでは絶対に判断できない。真面目に見える人ほど要注意だということを私は何度も体験してきた。
アメリカの大統領候補者を見ればよく分かる。トランプは誰が見ても真面目な面はしてない。逆にこわもてだ。しかし、バイデン候補はとても真面目で優しそうな面をしている。正に好々爺だ。しかし、彼の政治経歴を見ればよく分かるが、本当はリベラルの政治家がクリスチャンには一番怖いのだ。彼等は常に公平を語る。だから宗教も公平に扱う。そのせいで伝道も難しくなる。現に、学校から「十戒」や「主の祈り」が外された。又、ある教会では、同性愛者の挙式を断ったとの理由で牧師が訴えられた。このような、神を否定するアメリカ社会を作り上げてきたのがバイデン候補だ。彼は民主党で44年間も上院議員として活躍してきたし、オバマ大統領の時は副大統領だった。直近の民主党所属の大統領だったクリントン、オバマも然り。彼らを支持するアメリカのクリスチャン達は、聖書中心の物の見方を知らない。人間中心の信仰しか持っていない。もしバイデンが当選すると、クリスチャンは再臨間近と思った方が良い。又、大艱難も始まると覚悟した方が良い。だから備えることを忘れずに。
「 備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。(エゼキエル38:7)」アーメン。

2020年10月10日 牧師のつぶやき

教会には何故に牧師がいるのだろうか。牧師になる前までは考えたことはなかったが、しっかりと考えてみるのもいいだろうと思う。どのような組織にも指導者はいるが、その指導者によって私達の人生が決まることもある。だから、自分の指導者を選ぶことはとても重要であろう。又、指導者達は各自、大きな責任があることを理解することが大事であり、良き指導者になれるように日々様々な努力をするのが求められる。私も牧師に選ばれた以上は良き指導者を目指している。つまり、イエス様に「良くやった」と言われることを信条としているのだ。牧師になって21年にもなるのだが、時々は本当に嫌な仕事だと思ったりする。人を扱う仕事がこんなにも大変なことだとは思ってもいなかった。何よりも一人一人を気にかけなければならない。又、気を使わなければならない。NPOも大変な仕事だ。昨日も夜中に電話で起こされ、問題発生のエデンハウスに向かった。だから心身ともに疲れている。疲れない方がおかしい。今の時刻は土曜日の夜中2時だ。新会堂の建設で疲れていたので少し横になっていたら、目を覚ましたのが12時半だった。「牧師のつぶやき」をまだ作っていなかったので、先ほどからパソコンに向かっている。時折、考える為に外に出て、半かけになっているきれいな月を眺めては、心を神さまに向けている。
私は物の売り買いをするビジネスの方が性に合っていると思っている。指名して下さったイエス様には大変失礼だが、出来れば商売人に戻りたいものだ。なぜ欠点だらけの私を選んだのだろうか。今もって理解できない。「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(Ⅰコリント1:27)」神様は、この御言葉を示して見事に答えを出してくれた。だから今更つぶやいても仕方がない。諦めて自分の夢を捨てて前に進むしかない。イエス様を喜ばす為に。又、魂の救いの為に、与えられた兄弟姉妹の祝福の為に、自分の家族の為に全力を尽くすのみのだ。
私の願いは良き指導者になることだ。だが、誰がその評価をするのだ。もちろんイエス様だ。しかし毎年成績の通知表が来るわけではない。だから、がむしゃらに羊を養う為に働くのみだ。(ヨハネ10:11)選ばれたことに感謝し、楽しく喜びを持って…。私の一番の願いは、すべての人々が「イエスの中に人生の最高の宝がある」ということを知って欲しいことだ。アーメン。

2020年10月3日 牧師のつぶやき

昨日は「中秋の名月」だった。夜中に起きて月を見た。とても綺麗だった。今夜8時頃見た月も、昨晩に負けず劣らず綺麗だった。庭の椅子に座って、しばらく北東の空を眺めていた。とても美しいので天の神様に感謝した。詩篇136篇には「夜を治める月と星に感謝せよ」とある。時々は夜空を眺めるのもいいと思う。神を思いながら…。アーメン。
ヨブ記は面白い。ヨブと3人の友人達との信仰の戦いが記されている。最後に神はヨブに語られる。その冒頭は「主は嵐の中からヨブに答えた」である。時々神様は不思議な事をされる。なぜ、嵐を起こして語るのか。嵐の中で良く声が聞けるものだ。モーセにも同じようにした。(出エジプト19:18~19)エリヤの時もそうだった。(Ⅰ列王19:11)自然を利用しながら、しもべ達に語った。不思議な神様だ。まあ、どのような形であれ天の父の声を聞きたいものだ。(少し怖い気もするが)話しをヨブ記に戻すことにする。人間の高慢性を打ち砕く為に神はヨブに質問した。「私はあなたに尋ねる。だから腰に帯を締めよ」、「地球を造った時にお前は何処にいたか」、「大きさを定め、台座は何の上に据えたか知っているか」等々。もちろんヨブには答えることが出来ない。そして次に動物の習性を用いて様々な事を聞いてきたが、もちろんヨブには答えることが出来ない。当り前であろう。しかし世の中の学者や頑固者達は知ったかぶりをして進化論を持ち出す。聖書の面白さは、生きておられる神がそのような人々を笑うのである。詩篇2:4も本当に気持ちが良い箇所だ。「天におられる神は、彼らのむなしい計画を聞いて笑います」私達は神様に笑われないようにしよう。
日本に新しい首相が誕生したが何か期待できることはあるか?と考えて見たが、悲しいかな何も見当たらない。何故に魅力がないのか。長年官房長官をしてTVに登場していたが、記者達に何時もそっけなく答えていた姿しか思い出せない。官房長官の仕事は非常に重要だ。しかし、その重責を感じている様子は一度もなかった。国民をばかにしているようにしか見えなかった。その人が安倍さんの後を引き受けたのだから最大の厄災だ。聖書にも同じ様な人物が登場する。ユダの王アマツヤである。(Ⅱ列王記14:9)アザミに譬えられている情けない王様である。日本にへりくだった指導者を期待しているが、なかなか出てこない。出てくるのはアザミだけである。アザミは自分がアザミだとは知らない。杉の木と思っているから厄介なのである。あなたは何か?間違ってもアザミではあるまい。ぶどうの木か、イチジクの木か、オリーブの木であってほしい。 アーメン。

2020年9月6日 牧師のつぶやき

先週吹き荒れた台風9号に続き、またまた10号が沖縄、九州に近づいている。自然の脅威を味わうのはあまりいい気分ではない。人間にはどうしようもないのが自然の力だ。被害が少なくなるように祈るのがクリスチャンだろう。
イエス様は暴風を叱り、「静まれ」と命じた。(マルコ4:39)すると、暴風はおとなしくなった。私達も台風を叱る必要がある。「叱る」「叱られる」という言葉はあまり好きではないが、人間の社会にはつきものだ。「叱る」の言葉は人を育てたり生かしたりもするが、成長を止めたり殺したりもする。「叱る」ことは非常に難しいものである。私がイエス様を信じてない時は、当たり前に汚い言葉で周りの人々を叱ったものだ。会社を経営している時は日常茶飯事にこの言葉を口から出していた。叱るのが仕事であった。当時は「叱り方」「上手に叱る方法」等の本がよく売れていたが別に気にもしなかった。叱って当たり前、叱られて当たり前の世界だったから。
牧師になって初めて「叱る」ことの大切さが分かった。又、叱られる人の気持ちも分かったような気がする。私自身、子供の頃にはよく親から叱られた。中学生、高校生の時にはよく先生から叱られた。サラリーマン時代には上司や社長から叱られた。しかし、叱られたら「なにくそー、今に見ておれー!」と自分に言い聞かせて発奮したものだ。「いい仕事をして見せてやる!」の根性を発揮した。だからいい仕事が出来たと思っている。叱られたことのない人はかわいそうだ。安倍さんが辞任を表明した。病気だそうだ。彼を叱る人はいなかった。だから善悪の判断が出来なかったのだ。特に権力を握ってからは非情の世界の中に座っていた。嘘の世界の中心だった。森友学園、加計学園、桜を見る会問題…等々、すべてが嘘のかたまりだった。イスラエルの王様達はほとんどが自分勝手だった。国民の事なんか少しも考えなかった。だから国は混迷し、正義が失われ、王の側近や金持ち達が横行した。彼らは親からほとんど叱られたことが無かった。サムエルやダビデも子供達を教育できなかった。時に応じて叱らなかったからだ。イエス様はどうだったか。神殿で商売をしている人々を叱り飛ばした。ペテロをよく叱った。十字架に架かる前のゲッセマネの園で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人が祈れなかったので叱った。(マルコ14:37)叱って教育しているのが分かる。イエス様が弟子達を褒めている箇所はほとんど見当たらない。私もよく兄弟姉妹の皆さんを叱るが、それは愛の鞭だと理解してほしい。

2020年8月29日 牧師のつぶやき

ついに安倍総理が辞任表明をした。病気を持っていたようだ。遅すぎた感があるが少しは溜飲が下がった。
巷でよく聞く言葉がある。「身も心も魂も健康であることが大事だ」と。アーメンであるが、一つ大事なことが抜けている。「霊も」である。つまり四つの大事な事があるのだ。「身、心、魂、霊」である。
●その中で一番大事なものは「霊の健康」であろう。
聖書は言う。天の父なる神は霊だ。イエス・キリストも霊だ。聖霊も字のごとく霊だ。霊なる三位一体の神様だ。だから私達に「霊的になれ」と言うのである。「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。(ルカ1:80)」バプテスマのヨハネの霊は強くされた。だから霊的な活動が出来たのである。もう一つ示そう。「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(Ⅰテサロニケ5:23)」しかし、あぁ!悲しいかな。なんと知識のクリスチャンが多い事よ。あなたは霊的なクリスチャンか?それとも知識のクリスチャンか?
●二番目に大事なものは「身の健康」であろう。どんな賜物を持っていても、又、どんなに名誉ある地位についていても、どんなに金持ちであっても、健康を害したならば、強く健康を願わずにはいられないだろう。聖書は言う。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。(箴言17:22)」健康な体を持つことは神の御心である。だから健康には最大の注意を払うべきだと思う。
次は問題である。「心」と「魂」の違いを見つけることは至難の業だ。しかし、あえて分けて見よう。私達の日頃の言葉使いで判断すると、
●三番目に大事なものは「心の健康」であろう。「心から」と言う言葉は日常的に様々な場面で使う。たとえば「心から愛しているよ」「心から尊敬しています」等々。これを「魂から愛しているよ」と言うと感動を与えないし、相手の心をつかむことは出来ないだろう。 ●四番目に大事なものは「魂の健康」であろう。この言葉もよく使っている。
「一球入魂」 これは、「魂を込めて励め」という意味である。仕事をする時も「魂を込めてしなさい」とよく言う。以上四つの言葉を紹介したが、あなたはどのように聖書の教えを考えているだろうか?この四つの言葉に真剣に向き合ってみようではないか。最後に私の大好きな聖書のことばを紹介しよう。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ1:2)」アーメン。

2020年8月23日 牧師のつぶやき

「負けず嫌い」の人がいる。私もそうであるが、あなたはどうだろうか?
誰もがその精神を持っていると思う。それが無ければ向上心は生まれないだろう。誰でも人から褒められたいはずだ。その為に、何かをする時、一生懸命やりとげようとするのである。将棋の世界に「藤井聡太少年(18歳)」が登場して大活躍している。多くの記録を塗り替え、ついに将棋界の7つのタイトルのひとつである「王位」を獲得した。負けた木村一基王位(47歳)は、「中年の星」と言われ人気者である。彼は46歳で初めて「王位」のタイトルを獲得し、大いに日本中を騒がして中年のアイドルになった。そして今回、18歳の若者の挑戦を受けたのである。誰もが木村王位が勝つと信じていたが、藤井があっさりと4連勝して王位をもぎ取ってしまった。将棋に興味のない方々には申し訳ないが、こらえて読んでほしい。私は中学生の頃から将棋を指している。高校生になってからは、同級生達と将棋クラブを作ったほど没頭し楽しんだ。将棋は負けると非常にみじめになる。眠れないくらい悔しい思いをする。たかが将棋と思うのだが不思議である。他のスポーツ(ゴルフ等)では負けてもそんなにみじめな気持になることはなかったのだが…。負けず嫌いな人にはとても辛い世界だ。しかも投了の時には、対戦相手に頭を下げて「負けました」と言わなければならない。それも非常な屈辱である。だから今は一切将棋を指さなくなった。負けると相手が嫌いになるし、憎むことになるからだ。私とて普通の人間なのだ!
聖書に12弟子達が登場する。彼らは負けず嫌いの集まりだった。いつも、誰が一番イエス様に愛されているかを競い合った。だから仲は良くなかった。しかも、イエス様もよくペテロ、ヨハネ、ヤコブを特別扱いして(マルコ5:37)弟子達の「競争」を煽っている節がある。又、教育ママまで出てきて、2人の息子たちの出世を懇願した(マタイ20:21)。これらは2000年前の出来事であるが、今も昔も変わらない人間の世界なのだ。負けず嫌いもいいのだが、度を越えると人生を破壊することになる。聖書の中には、人間社会で「競争」と縁がなかった2人の人物が登場する。「バプテスマのヨハネ」と「イエス様」である。2人は非常にへりくだっていた。自分の目的だけを見つめていた。だから常に真理と平安の中にいたのだ。2人のように、無我の境地に入りたいものだが、私の心は中々そこに入って行けない。隣の教会ばかりを気にしている。
あぁ!情けない!

2020年8月16日 牧師のつぶやき

新しい教会の工事が順調に進んでいる。15~16人の方々が熱中症と戦いながら、それぞれの仕事を全うしている。本当に感謝だ。特に最大の難関の「はつり」がほぼ終わり、いよいよ、その「ガラ」の搬出も今日(14日)で終了となる。この3日間は毎朝5時出勤だった。隣のうどん屋さんの駐車場を借り、開店前の10時までに「ガラ」の搬出をしなければならなかった為である。4時起きで身支度をし、5時30分には現場に着かなくてはならない。朝の4時起きはとても辛いことだが、皆、良く頑張ってくれた。「ガラ」出しの3日目の今朝、とんでもないことが起こった。それは現場に着くとすぐに目についた。先に着いていたメンバーもそれを見て、目をまん丸くしていた。1階の休憩所の側に、真っ赤なソファーベッドがツインで置かれているではないか。夜中に誰かがこっそりと捨てたのだ。粗大ごみである。処分には金がかかる。だから誰もいない夜中に置いていったのだろう。腹が立った。私達もお金を払って処分しているのだ。今は、産業ゴミほど高いものはないと思うほどに処分料金が高くなっている。又、処分するにも色々と規則があって簡単ではない。だから腹が立つのだ。確かに工事現場だから色々な産業ゴミがころがっている。しかし、だからといってゴミ捨て場ではない。この件について、ちょっと考えてみた。「ソファーの色からして若い夫婦だろう」とか、「コロナによって収入が減ったので、処分料金をおしんで仕方なく工事現場に置いて行ったのだろう」とか、「このソファーベッドはかなり重いので、若い夫婦が運ぶにはきつかっただろう」とか、「夜中にこっそりと悪いことをするには、かなりの覚悟がいったはずだ」とか…etc.だから、諸事情を考慮して赦すことにした。ハレルヤ!
自己中心の時代、人を赦すことには、かなりの信仰と勇気がいる。私は牧師なので色々な人から相談を受けるが、「人が赦せない」という相談は断トツだ。私は、聖書にある通りに良きアドバイスをしているつもりだ。「誰でも、いつでも、どんなことでも赦しなさい」これはあくまでも相談者へのアドバイスである。しかし、自分が当事者になると事情が違ってくる。自分が被害者になるとそう簡単には行かない。謝るまで、弁償するまで赦さないのである。これが本心である。私も自己中心の感情の人間だ。普通の人間だ。しかし、天の父を恐れているので、聖書に従い、赦すことに全力を注いでいるのだ。

2020年8月9日 牧師のつぶやき

聖書は素晴らしい。次のようなことが書いてある。Ⅰコリント15章21節「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」聖書は良く考えることを勧めている。良く考えて信じたのなら救われるのでいいのだが、もしよく考えることをしないで信じたならそれはむなしくなると教える。が、あなたはどうか。
大阪府の知事さんが机の上に「うがい薬」をずらっと並べて、コロナにうがいが良く効くと記者会見をした。この会見からわずか二時間位で薬局にうがい薬を買う人たちが押し寄せたそうだ。良く考えないで「うがい薬」を買いに走ったのであろう。しかし人騒がせな浅はかな知事さんだ。少し前は人気が高く、よくテレビに登場していた。のぼせあがったのだろう。その後、言い訳に追いやられている。政治家は良く考えて話をしないといけない。なぜなら人々に大きな影響を与えるからだ。特に今の時代は考えない時代と言われている。少し前には「一億総白雉」の言葉も流行った。オレオレ詐欺が流行って10年になるそうだ。お年寄りの方がよく騙された。長年働いて貯めてきたお金が電話一本で持っていかれる。少しだけ、ほんの少しだけ考えてもよさそうだが・・・。
冒頭に書いたように聖書には、物事は良く考えるようにと至る所で勧めている。
もう一つ良い言葉を紹介しよう。Ⅰコリント13章11節 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」
子ども時は子供として考え、話し、論じたが、おとなになったので子供の考えは卒業しました。これが正常ですね。大人になれるか、子供のままでいるか。これはクリスチャンには耳の痛い教えです。
では、大人とはどんな人の事を言うのか。難しいことだけど、避けては通れないから話そう。「常識を持ち合わせている人」とある人は言った。しかしこの常識はくせ者で、基準がない。だから時と場所と人によって違うのである。大きく言えば国同士でも大きな違いがある。また社会の常識はキリストの常識と大きくかけ離れていることがある。幸いにも私達は聖書と言う素晴らしい基準を持っている。聖書が常識とは何かを明確に教える。クリスチャンのあなたは聖書の言う常識派か。また良く考える人になろう。アーメン。

2020年8月1日 牧師のつぶやき

全国でコロナウイルスが暴れている。予想通りに第2波が来たのである。ブログ人口比による感染者の数は、東京、大阪に次いで沖縄が第3位になるそうだ。沖縄は1日の感染者が71人に上った。連日記録を更新している。このコロナで、各県知事や国の指導者達の評価が現れるそうだ。一番の人気が、大阪の吉村知事だそうだ。若くてメリハリが効く政策を打ち出しているとのことだ。又、青森県むつ市の市長も人気が高い。先の連休に彼は、コロナの怖さを打ち出し、観光施設をすべて閉鎖して、徹底的に観光客を排除した。では、我らが玉城デニー知事はどうか。いまいち評価が低い。「コロナ政策が後手後手に回っているふしが見える。感染者を多く出している米軍基地への対応も感心出来ないし、県民の大方が不満を持っている」とタイムスが厳しく批判している。
私はデニー知事とは10年来の付き合いだ。彼はとても人情家だ。政治家には珍しいタイプである。だから友人達には絶大な人気がある。しかし、人情家に付きまとう優柔不断の性格もある。今回はそれが前面に出た格好だ。コロナも怖い。しかし、県の産業は観光がメインだ。「観光客に来ないで」と言いたいのだが、観光業の方々のことを考えると言えない。二者択一が出来ない。これが彼の性格だ。人情味あふれる性格の欠点がここに来て現れてしまったのだ。人気取りの本土の無責任なリーダー達とは違う。可哀想に…。がんばれ!我が友デニーよ。祈っているよ。
性格は私達の人生を大きく左右する。大体大きく分けると次の3つのタイプに分かれる。
①肯定派(「出来る」と言う前向きな心を持つ人)
②どうでもいいよ派(人に流され自分の意見を持たない人)
③否定派(最初に出てくる言葉が「出来ない」の心を持つ人)
あなたはどのタイプか?私はどちらかと言うと肯定派だ。クリスチャンになってからは、より一層肯定派になった。何しろ「生きておられる神、何でも出来る神」を父に持つようになったからだ。だから私は、クリスチャン人生をとても楽しく生きている。イスラエルで「ヤロブアム」が王になった。彼を12部族の内、10部族が支持した。(Ⅰ列王記12:20)普通、王様は絶大な権力を持ち、何でも出来るはずだ。しかし彼は、王様になったのに否定的な考えを持つようになった。(Ⅰ列王記12:26~)この心が彼を滅ぼしていくことになる。彼はイスラエルの神様を信じていたのに……。私はこれまで多くの否定的なクリスチャン達を見てきた。あなたはどうか?下を見て歩くクリスチャンではないか?
ハレルヤ!と天に向かって叫んでみろ!上を見上げよ!と天の父は言っているぞ!アーメン。

2020年7月26日 牧師 一口メモ

私が信じている神様は非常にユニークだ。あまりにもユニーク過ぎて怒りが来る時がある。何故なら、いつも聖書を通して「神の義」を教えているにもかかわらず、「これが正義か?」と思う時があるからだ…。
例えば、旧約聖書に登場するアハブ王について見てみよう。彼は非情な王で、誰よりも最悪の王だったと言っている。(Ⅰ列王記16:30~31)「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。(Ⅰ列王16:31)」又、自分の宮殿の隣のブドウ畑が欲しくなって、持ち主(ナボテ)に売買の交渉をした。しかし、持ち主は、先祖からの大事なブドウ畑なので「売らない」と断った。それでアハブ王は、へそを曲げ、食事もしないで落ち込んで、ベッドで寝たきりになってしまった。王の立場も忘れてしまって、仕事もしないでいた。これが一国の王たるものかと思うのだが…。しかし、悪妻イゼベルの謀略によって、ブドウ畑を手に入れてしまった。当然、神様は怒った。そして、預言者エリヤを遣わした。エリヤから忠告を受けたアハブ王は、悔い改めた。その悔い改めによって許された。だが、殺されて財産を奪われたナボテはどうなるのだ。これが「神の義か?」と思うのだ。又、神様は、預言者エリヤを大いに用いて、数々の不思議、奇跡を行った。そのひとつに、神様がエリヤを、烏(カラス)を使って養った話しがある。数羽のカラスが、エリヤの所に、朝と夕、パンと肉を持って来たのだ。鳩でなくカラスだ。何故にカラスなのだ。(Ⅰ列王17:2~6)又、敵との厳しい戦いが続く中、エリヤは連戦連勝だったが、疲れ果てて、うつ状態になり、死にたいと引きこもってしまった。(Ⅰ列王19:4)しかし神様は御使いを使って、エリヤにパンと水を与えた。今度はカラスではなく御使いだった。カラスを使ったり、御使いを使ったりと、神様のみ心を知るのは中々難しい。あわれみ深い神様だが、非常におもしろい手を使うユニークな神様ではないか。だから聖書を読むのは楽しいのだ。悪人でも忍耐を持って使い続ける神様だ。日本の政治のリーダー達を見ると、正にアハブ王だ。特に安倍さんはそっくりだ。国民は自分達をいじめ続けている安倍さんを選んでいる。コロナの第2波が来ているのに「GO TOキャンペーン」で、全国にコロナをまき散らす政策しか出来ない。東京をはじめ、都市では感染者が増え続けている。沖縄も1日で10人の感染者が出た。米軍関係者も感染者が増え続けている。ただ単に自粛だけが先行し、事業者への補償は何も打ち出せないでいる。しかし、日本の国民はそんな安倍さんを信用している。おかしなことだ。この沖縄に、そして日本に、エリヤが登場するのを待つしかないのかもね。アキサミヨ-!!だよ。

2020年7月19日 牧師 一口メモ

ここ2~3日腹が立ってしょうがない。怒りでいっぱいだ。米軍基地の中でコロナ感染が蔓延している。今日(17日)までに5つの基地で138人が感染している。最初は人数も公表しなかった。県が幾ら要請しても断り続けていた。しかも官房長官の「菅さん」は、米軍の対応は正しいと言ったのである。沖縄を馬鹿にし過ぎている。いつもアメリカの言いなりだ。
秋田県のイージス・アショアの配備は、県民の反対に遭って配備を中止した。河野防衛大臣が直接謝罪までしている。しかし、沖縄の新基地建設は当たり前だと言う。辺野古は県民の6割が反対を唱え続けているのに、無視して工事を続けている。それは一兆円近くまで予算が膨らむそうだ。完成までいくらかかるのか、何年かかるのか誰も分からない。アメリカでもこの場所を疑問視している人が増えてきたそうだ。何しろ軟弱地盤だから。震度2~3でも崩壊するというデータもある。それでも基地建設を強行している。バカにするのもいい加減にしろ!と怒りがこみ上げてくる。明らかに沖縄差別だ。又、政府の言いなりになり、金をばらまかれ、奴隷にされても何も言えず、自民党の県議さん達に投票した、情けない自己中心の沖縄県民も…。
聖書にもそのような人々の記述がある。
「実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。(Ⅱコリント11:4 、11:20)」
物言えないクリスチャンにはなってほしくない。聖書は言う。「ハイはハイ。ノーはノー」だ。反対する勇気と断る勇気は人にとってとても大事だ。コリントの教会は完全に腐っていた。自己中心のクリスチャン達が集まっていたのだ。彼らは聖書を知らなかった。又、必要としていなかった。なぜか高慢と無知が彼らを支配していたからだ。このようなクリスチャンは現代でも教会にウヨウヨいる。
私達は「無知の知」を座右の銘にしたいものだ。私達は聖書の全てを知ることは出来ないし、神の御心の全てを知ることも出来ない。だが、聖書の教えは完全だ。だから常に聖書を頼って生きた方が良い。又、無から有を生み出す神を頼って生きること。これが最高の人生だ。アーメン。

2020年06月28日 牧師 一口メモ

やがて新しい会堂が誕生する。今回、天の父が下さったものは、南風原町にある築約30年の5階建ての建物だ。4階部分を教会にする為、毎日、多くの兄弟姉妹達と共にリフォーム作業をしている。この建物は30年近く「温浴施設&レストラン」を営業していた為、あまりにも物が多すぎて選別作業が大変だ。ほとんど捨てる物ばかりである。皆が汗と埃にまみれながら作業をしている。私は色々と指示をしながら、ここはああしよう…、ここはこうしよう…、と完成を想像したりして楽しんでいる。全面的に改装するので大変な工事ではあるが、色々な特技を持った人達が集まっているので、工事が早く進む。何でも出来る素敵なプロの集団だ。「よくぞ、こんなにも素晴らしい兄弟姉妹達を集めて下さったものだ」と天の父に感謝している。ハレルヤ!
当教会の移転はこれで3度目である。1999年11月に浦添市大平の会堂からスタートした。その時も、教会員皆でリフォームした。それから5年後、同じ浦添市の宮城に引っ越した。そこも古い建物だったが、皆で頑張ってリフォームして、とてもいい会堂に仕上げた。しかし、その又3年後、現在の所(那覇市曙)に引っ越すことになった。7階建の大きなホテル跡を買い取ったからである。その1階部分をリフォームして会堂にした。移って来て約10年、やっと落ち着いてきたなと思っていたら、最近になって頭を悩まされる問題が起こってきた。ここは築50年の古い建物なので、かなり老朽化が進み、色々と壊れてきているのである。台風の時には大変だった。雨漏りも日常茶飯事である。修理しても、修理しても、次から次へと色々な所が壊れてくる。だから、「新しい場所を下さい。もう古い建物はたくさんです。新しい建物を下さい…」と必死になって祈ってきた。そして、やっと祈りは聞かれ、天の父からのプレゼントが与えられたのである。今回も古い建物ではあるが利点が大きい。車の往来が激しい目立つ場所にあるので、教会にはもってこいである。又、なんと80台も収容できる駐車場がある。このような素晴らしい場所に引っ越せることを心から感謝している。作業現場を歩き回りながら、新会堂の完成を心のキャンバスに描いて、ワクワクした毎日を送っている。ハレルヤ!
聖書によると会堂の歴史は、神の幕屋からはじまり、ソロモンの神殿、そしてシナゴーグと続く。そこに人々が集まって神様に礼拝を捧げていたのである。教会は建物ではあるが、霊的にはイエス様の御体である。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」、「私の家は祈りの家と呼ばれる。(マタイ21:13)」だから、新会堂は出来るだけ綺麗にし、清潔感を出したいと思っている。 完成まで今しばらく祈りつつお持ちください。乞うご期待!アーメン。

2020年06月21日 牧師 一口メモ

「天国と地獄」(1963)という映画があった。黒沢明監督の映画である。貧しい家庭で育った主人公は、必死に頑張って製靴会社の役員にまで出世する。そして丘の上に豪邸を建てて優雅な生活を送っていた。ある時、子供が誘拐される。しかし、その子供はお抱え運転手の子供だった。誘拐犯人が間違えてしまったのだ。これから人間の業が展開していく…。という内容だ。
ついに連日報道されていた国会議員の夫婦が逮捕された。河井前法務大臣と参議院議員である奥さんの案里氏だ。2人とも国会議員になった。しかも夫の克行氏は去年、法務大臣に就任した。夫婦で満面の笑みをもって自慢げにTVのインタービューに応じていた。しかしその後、奥さんの選挙違反が報じられ、夫が辞任に追い込まれてしまった。わずか1か月ほどの法務大臣だった。その後2人は国会にも出席せずに逃げ回り、国民の前に姿を見せることはなかった。当然、説明責任も果たすことなく、ひたすら隠れ続けるしかなかった。しかし、ついに選挙違反で2人同時に逮捕されたのである。
今、拘置所の中で、夫婦して「地獄に落ちた」と思っているだろうと推測する。正に「天国と地獄」である。このような人生を歩む人は多いのではないかと思う。私自身もその一人だ。過去に死にたいと思うほどの苦しみを体験した。それは正に地獄だった。各々感覚は違うと思うが、ほとんどのクリスチャンが、程度の差はあれ、地獄のような苦しみを体験したのではないかと思う。このような証しはクリスチャンの世界ではごく当たり前のことで、誰もがすんなりと救われたとは思えない。
詩篇119:71 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」この詩篇の御言葉どおり、クリスチャンになってはじめて、失敗や挫折の体験が真理を悟る道へと続いていることを知るのである。私達が神様から与えられた「特権」は霊的なことである。この世の一時的な楽しみ、苦しみとは比べることができない。イエス様を自分の救い主として信じることによって、死後に「永遠の天国」に住むことになるのである。これこそが神様からの大いなる祝福なのである。ハレルヤ! 恐ろしいのは「永遠の地獄」に入れられることである。願わくは、河井夫妻が拘置所の中でイエス様に出会いますように…。
伝道者の書7:14 「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」
この御言葉が生きて働きますように。アーメン。

2020年06月14日 牧師 一口メモ

キリスト教の基本的な教理は「愛」である。そのシンボルが十字架だ。各教会には必ず十字架がそびえ立っているはずだ。つまり私達は「愛」を掲げるクリスチャンなのだ。このような宗教は他にはない。神様は天地万物を私達人間の為に完璧に創造して「愛」を見せて下さった。又、人間の罪を赦す為に独り子イエスを十字架にかけて下さった。この事によって全ての人間にご自身の「愛」を示して下さったのである。神様は私達に「互いに愛し合いなさい(ヨハネ15章)」と3度も命じられた。ですから愛の人になることが私達の目標である。
私は毎日「私を愛の人にしてください。愛の人になりたいのです。」と強く祈り続けている。ややもすると、日々の生活の中でいとも簡単にこの「愛」がどこかに吹っ飛んで行く。不思議なことに何か問題が起こると「怒り」が「愛」を吹き飛ばしてしまう。
私はクリスチャンになって31年、牧師になって21年、必死に愛の人になりたいと思い、祈り続けてきた。自分の性格についても「口が悪いので私の言語中枢に働いて下さい…」と必死に祈っているのだが、短気な性格は一向に直る気配がない。何故にすぐに怒るのだろうか。穏やかに話しが出来ないのだろうか。優しく諭し、戒めることが出来ないのだろうか。
「自分はどのようなとき怒るのだろうか?」と考えてみた。あれこれ色々な事業をやっているとスタッフと話す機会が多い。彼らの仕事のミスを発見すると瞬時に怒りが湧いてくるのである。
聖書は教える。ぶどうの木の枝が豊かな実を結ぶには、管理することが重要である。つまり管理者が必要になるのである。私達が良い実を結ぶための管理者はイエス様である。イエス様は直接語らないし、注意しない。聖書を通して注意し、戒めるのである。あるいは人を使って「愛のむち」を振うのである。
ぶどうの木は時期が来たら枝の刈り込みをする。(ヨハネ15:2)その時には、ぶどうの枝は痛い思いをしなければならない。この事は後に多くの実を結ぶために必要な事なのである。何の管理も受けない野生のぶどうの枝は豊かな実を結ぶことは出来ない。
私達クリスチャンが豊かな実を実らせるためには「刈り込み」という訓練が必要である。きれいに管理されてはじめて豊かな実を結ぶことになる。イエス様に管理されて「愛の実」を結びたいものだ。アーメン。

2020年06月7日 牧師 一口メモ

世界中がコロナウイルス恐慌に陥っている最中、アメリカにおいて、警察官に よる人種差別的な行為で黒人男性が死亡した。このような出来事は今回に限っ たことではない。何度も何度も起こってきたことだ。その度に抗議行動が起こ った。しかし、なかなかアメリカの警察が改まることはなく、今も尚、起こり 続けている。私は22歳時(1971年)、初めてアメリカのロサンゼルスに行った 。その時、1968年に起こった暴動(キング牧師暗殺)で破壊された現場の後を 見た。沖縄のコザ暴動とは桁違いの悲惨な状況だった。何キロにもわたって、 焼かれている車が放置されていた。又、焼き討ちに遭った商店街がそのまま残 っていた。それらを見た時、長年差別され、虐げられ、痛めつけられてきた黒人 の怒りを痛切に感じ、私の胸を強く締め付けた。48年前のこれらの光景を今も 鮮明に覚えている。今回の抗議運動は、何時治まるのか分からない。大きな怒 りがうねりとなって全州に広がっている。又、略奪行為も今までになかったほ どの大きな被害を起こしている。一日も早く収束することを願っている。
「差別」は大昔から人間の社会に存在してきた。そしてそれは人間の心を蝕ん できた。沖縄と日本本土を見ればよく分かる。コザ暴動に参加した先輩の話を 聞いたことがあった。車を焼いている時に、道を歩いていた白人を手当たり次 第に皆で殴りつけたそうだ。しかし黒人には手を出さないようにとの暗黙の了 解が芽生え、黒人は殴らなかったそうだ。「うちなーんちゅ」の心を見たよう だった。それが白人に支配され、差別されていた沖縄の心だったのだろう。
人間社会は一つの組織である。集合体である。当然そこには支配者がいて、支 配されるものが出る。それは、組織や社会がうまく機能して、人々を幸せにし 、平和をつくる為に必要であるはずだ。しかし、問題も大きな壁となって人の 間に立ちはだかる。聖書は次のように教える。一つ目は、黒人(シェバ、エチ オピア)のユダヤ人がいたことだ。クレネ人がそうだ。マルコ15:21、ローマ 16:13にも登場する。しかも、彼らはとても仲良く暮らしていて、イエスを信 じていた。そこには差別はなかった。もう一つは、使徒の働き8章。ピリポが エチオピアの宦官に洗礼を授ける話がある。この宦官は黒人である。弟子達の 愛の深さが良く理解できる場面ではないか。ピリポは黒人を差別しなかった。 又、使徒の働き6章では、差別されているやもめたちがいた。その解決の為に 使徒たちは動いた。どんな問題にも必ず解決の策がある。使徒達はいつも聖霊 に従っていたのだ。だからすぐに動いて解決できた。しかも最高の解決策であ った。そのような聖書の教えには、ただただ驚嘆するのみだ。ハレルヤ!

2020年05月31日 牧師 一口メモ

牧師一口メモは、金曜日の夜から書きはじめ土曜日の朝に出来上がる。それは、愛する妻との大きな愛の合作である。下書きは私が作るが、仕上げは妻の役目である。私は大体1時間位で書き上げる。社会の話題と聖書をかみ合わせて、それを日曜日のメッセージにつなげることにしている。妻はそれを1時間以上かけて丁寧に仕上げていく。漢字の使い方や言葉のつづり方、文章の流れ等々にかなり気を配って修正していく。だから妻が参加してからは、以前とは比べられないくらい読みやすい「一口メモ」になっていると思う。夫婦で一つの仕事をこなすことは、とてもいいことだと思う。
今、私は、旧約聖書「Ⅰサムエル記」、新約聖書「ローマ書」を読んでいる。毎日、旧約と新約の両方を読むように心掛けている。「Ⅰサムエル記」は、ダビデがサウル王に代わってイスラエルの王になる物語である。その中に非常に興味がある場面を見つけた。遭遇したといった方が良いだろう。今まで何度も読んできたが全然気に留めなかった箇所だ。これによって聖書の不思議を体験した。Ⅰサムエル記30:26~31で、ダビデはアマレク人との戦いに勝利して、多くの戦利品を獲得し、それをイスラエルの人々に分け与えた。その前の箇所では、疲れて戦いに参加できなかった戦士達に戦利品を分け与えている。戦いに参加した勇者達は、脱落した仲間達に戦利品を分け与えることに反対する。しかしダビデは、戦いに参加した勇者たちを説得して、脱落した戦士達にも同じように分け与えるのである。しかも、戦争に関係しなかったイスラエルの長老達や民にも贈り物をした。ダビデの真骨頂が伺える。彼は常に与える人だった。又、部下や仲間に対して、とても大らかで思いやりがあった。ケチることは一切しなかったし、非常に義理堅い人だった。ダビデの生涯を見ればそれがよく分かる。アブラハムと同じことをしている。(創世記13:9-11)だからダビデにアブラハムの祝福が臨んだと思う。前王のサウル王とはすべてが正反対だ。
私達の人生はクリスチャンになっても多くの訓練を受ける。つまり問題や悩みの中を歩んで行くのである。特に対人関係は非常に大きな悩みだ。それは、私達が、主の教える最大の戒めを守る為である。
①あなたの神を愛せよ。(ダビデは常に主の戒めを一番にした。敵となったサウル王を殺すチャンスがあったのに赦した。)
②あなたの隣人を愛せよ。(戦利品を同胞に送ったのは愛があるからであろう。)クリスチャンは神から様々な訓練を受ける。その訓練を早く終わらせるためには、この2つを生活の中で実行できるようになるべきだと思う。常に自分を捨てて、神の命令に従い行うことに力を注ごうではないか
アーメン。

2020年05月24日 牧師 一口メモ

コロナウイルスに振り回され、生活に大混乱をきたしてきたが、やっと落ち着きそうだ。礼拝も以前と同じように、皆で一緒に手を取り合って捧げることが出来る。非常に嬉しいことだ。やっぱり正常な形での礼拝が一番だ。アーメン。
この2カ月間の苦しみを通して、平和に勝るものはないとつくづく感じさせられた。お金を始め、仕事や車、家や家族等の全てを持っていても、平安、自由がないのは大変なことだ。この体験は非常に貴重である。イエス様が甦って後、弟子達に現れて放った第一声は「平安があるように」だった。又、クリスチャンとして色々な制限をかけられることも嫌なものであると体験した。信仰を保つには教会が必要だし、兄弟姉妹達との交わりも必要だ。これらがいかに大事であるかを知った。だから、今回のコロナウイルスの嵐は、私達クリスチャンに大きな教訓をもたらしたと思っている。まだまだ油断禁物ではあるが…。
しばらくはマスク生活を強いられそうだ。しかし何よりも、今日から普通の当たり前のスタイルで礼拝を捧げることが出来る。こんな嬉しいことはない。イエス様に感謝である。とにもかくにも、私達の祈りこそが勝利となったと信じている。これからも祈りを絶やさず、心一つにして教会に集まろう。ハレルヤ!
イエス様は常に祈るお方であった。朝早くから祈り、夕にも祈り、夜を明かして祈られた。そして弟子達に「主の祈り」を教えられた。又、ヨハネの17章では、十字架にかかる前夜、長い祈りを天の父に捧げている。その前に、祈りの極意を弟子達に語っておられる。イエス様は過ぎ越しの食事をした後、弟子達に長々と時間をかけて色々なことを教えられた。ヨハネ16:33 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」①平安がある。②艱難があるが勇敢であれ。③世に勝った。これらはまだ起こってはいなかった。しかし既に受け取ったような言葉である。まさに「マルコ11:24」の祈りの教えではないか。「祈って求める者は何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」イエス様は、ヨハネ17章で「父よ」と何度も呼びかけている。1節、5節、21節、24節では「父よ」と、25節では「正しい父よ」と、とても親しく呼びかけている。正に親子の関係を強く表していると思う。私達の神は、とても優しい父なる神である。だから、「アバ!父よ!(マルコ14:34)」と呼んで祈ろうではないか。アーメン。

2020年05月17日 牧師 一口メモ

コロナウイルスの感染が全国的に減って、だいぶ落ち着いてきたようだ。沖縄も「緊急事態宣言」が解除された。やれやれと言ったところだが、手放しで喜べるものではなさそうだ。引き続き警戒は必要だろう。私達の礼拝も、5月24日からは通常通りにやれそうだ。ハレルヤ! 礼拝は皆が一つ所に集まってやるのが一番だと思う。詩篇133:1 「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」。この聖句は、主の宮での礼拝を表している。正にその通りで、神の家族が主の宮に集まり、心一つにして捧げる礼拝はとても楽しい。時には厳しいメッセージによって心砕かれることもあるが。
今回のコロナウイルスのことで、神様は、私達クリスチャンに何を教えておられるのだろうか。祈ってみた。考えてみた。しかし、なかなか確信のある答えを得ることは出来なかった。日本においては、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ等と比べると、感染者数、死者数も非常に少ない(5/16現在)。予想に反して、短期間で「緊急措置」が、8都道府県を除いて解除された。沖縄も解除された。どうして日本は強制措置が伴わないのに、自粛要請のみでコロナウイルスを抑え込むことが出来たのか。国民性の違いかとも思うのだが…。何しろ日本人は非常にまじめな性質を持っている。勤勉でもあるし、盗みをしない。大地震が来ても略奪しない。暴れない。聖書の「使徒の働き」を見ると、イスラエルの人々が、いかに激しやすい感情を持っているかが分かる。「イエスを殺せ」と言ってユダヤの群衆は騒いだ。ステパノの時もそうだ。「直ぐに殺せ、除け」と叫び、行動に移す。パウロの時もそうだった。それらと比べると、いかに日本人が、感情を抑えるすべを知っているかが分かる。そのことは、自動販売機を見るとよく分かる。全国の至る所に置かれているが、壊されたり盗まれたりすることが無い。無傷でそのまま置かれている。先進国アメリカでは考えられないことだ。世界一治安の良い国に住めて本当に感謝している。この性質は世界に誇れるものだ。これは神様が与えてくださった賜物だと思っている。そして、一つだけ確信が持てたのは、「クリスチャンの祈り」だった。日本人のクリスチャンはよく祈る。日本の教会は世界一祈る教会だが、今迄、一つの問題の為に、心合わせて祈ったことはなかったのではないかと思う。全ての教会、全てのクリスチャン達が、自分の家で祈り続けてきた結果が現れたのだ。祈りの力が神の御手を動かしたのだ。このコロナウイルスの件が、日本のリバイバルのカギとなるかもしれないと感じた。とにかく祈り続けようではないか。アーメン。

2020年05月09日 牧師 一口メモ

人間の一生は困難と艱難との戦いである。又、様々な事故事件や災害等々に、いつ何時遭うか分からないのも人生であろう。一寸先は誰にも分からない。ゴスペルソングにあるように「明日はどんな日か知らない」。だからといって希望を失っているわけではない。大きな希望があるのも人生だ。
聖書においてイエス・キリストは、私達に希望の約束をしておられる。
ヨシュア記1:9「私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行く所どこででも、あなたの神、主があなたと共におられるのだから」。すごい約束ではないか。このような約束は、私達に絶大な希望を与える。何しろ「生きておられる神で、何でも出来る神」が聖書の御言葉を持って約束しておられるのだから。
又、詩篇23:4「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、共におられますから」。私達の一生には様々な問題が常に起こる。特に人間関係は、複雑に絡んできて私達を悩ます。時には死を考えることもある。私も40歳の頃に、死を考えるほどの大きな問題に襲われた。しかし、イエス様に出会ってからは、死を免れて、今、生きている。
詩篇91:15「彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみの時に彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える」。私は、聖書の約束通りに、溢れんばかりの恵みをいただいた。ハレルヤ! あわれみ深いイエス様は、「いつもあなたと一緒だよ」と約束して下さった。又、「どんな災いからも守る」とも…。
詩篇121:3「主は、あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない」。このような約束は枚挙にいとまがないくらい溢れている。
詩篇91:10~12「 わざわいは、あなたにふりかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」。
イエス様は、天使をも使って私達を守ると言う。なんという素晴らしい愛だろうか。コロナウイルスが世界中を席捲している中で、私達に大きな守りの約束が与えられている。信じて祈りつつ日常生活を送ろうではないか。しかし、だからといって無茶な信仰には気をつける必要がある。信仰と御言葉の適用は慎重に行わなければならない。敵は常に目を光らせていることも忘れないで。
Ⅰペテロ5:8~9「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」アーメン。

2020年05月02日 牧師 一口メモ

コロナウイルスの「緊急宣言」が5月いっぱいまで延長になりそうだ。いつになったら落ち着くのだろうか。いつまで続くのか…。どんよりと漂う嫌な気分の毎日だ。確かに道路は車が少なくて走りやすくはなったが、だんだんと変な感じを持ってしまう。しかし、この嫌な思いをなんとか吹き飛ばそうと、聖書を読み、祈りで心を静めている。今は、ほとんどの人が不幸の中にいるのではないだろうか。
今日は「成功と不幸」について記したいと思っている。生きている神様は、人間が幸せに生きるようにと願って天地万物を創られた。そして創り終えた時に、すべてをご覧になって「良かった」と言われた。人間にとって最高の環境が与えられた。又、動物、植物もすべてが良い物だった。アダムとエバが罪を犯してエデンから追放されて以降は、生まれて、生きて、枯れて、死ぬ。これが、神様が自然に与えた循環作用だった。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。当たり前だが非常に大切な自然の作用だ。しかし、サタンに騙され、このサイクルが狂い始めた。人間が勝手に自分達の欲望の為に、神様が創られた最高の自然のサイクルを狂わせてしまったのだ。これが人類の大きな不幸のはじまりであった。文明が発達して便利にはなったが、心は段々と難しくなり、不幸感が優先になった。生まれる前から競争の中に入れられてきたからだと思う。人はよく次のように言い、教える。「生まれてきたからには成功するのだよ」と。「成功」「幸せ」とはいったい何なのだ。深く考えたことがないかもしれない。私自身、イエス様を知る前の答えは非常に簡単だった。偉くなり、金持ちになり、外車に乗り、豪邸を持つことだった。しかし、イエス様を知ってからは、「成功と幸せ」に関する考え方が根底から変わった。幸せの定義の一番目は「イエス様を知る」ということだ。つまり、人には「救い」が備えられているということだ。二番目に「罪を知った」ことである。「犯罪の罪」は良く知っている。しかし、「イエス様が言う罪」は知らなかった。本当はこの罪が罪なのだ。三番目に「天国と地獄がある」ということを知ったことだ。人間は死んだら終わりだと思っていた。しかし、後の世界があったのだ。いくら財産を持ち、有名になり、偉くなっても、これらのことを知らなければ、成功とは言えないし、幸せともいえないと思う。マタイ16:26 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」クリスチャンはこの言葉がよく分かる。だから最高の成功者であり幸せ者なのだ。アーメン。

2020年04月19日 牧師 一口メモ

コロナウイルスが登場してから、クリスチャンの世界では色々なことがささやかれ、ネットを賑わしている。「神の声を聞いた」、「神を見た」、「天上会議を見た」等々。又、「悲惨な出来事を見せられた」等の夢や幻が行きかっているようだ。確かにこれらのことを体験したりする人はたくさんいるだろう。しかし、このような時こそ検証や吟味が必要であろう。そして、次のように聞くのも忘れないでおこう。「なぜ私に見せるのですか?」、「なぜ私を選んだのですか?」…と。この謙遜さを持っている人は心配ないだろう。
又、「神の声を聞いた」と言う人や、夢、幻を見た人達が言う。「もうすぐ主は迎えに来られる」と。とてもすばらしいことだ。しかし…と考えざるを得ない私がいる。今、主が迎えに来られたら非常に困る。なぜなら1億人の日本人が地獄に行くからだ。私の姉や弟もまだ信じていない。伝道しているのだが、なかなかイエス様を信じようとしない。又、多くの友人達もまだ信じようとしない。だからもう少し時間が必要だ。本当は「マラナ・タ」と叫びたいところだ。しかし、「イエス様、今はあなたの来る時ではありません。一生懸命に伝道しますから、もう少し時間を下さい」と祈るべきであろう。そして、このような時に気をつけなければならないのは、惑わされない(騙されない)ことだ。サタンも御使いに変装するのだから。(Ⅱコリント11:14~15)
先週、「復活の喜び」のメッセージをしたばかりなのに、又コロナの話しか…と嫌になっている方もいると思う。危惧するのは、沖縄も非常事態宣言の枠に入り、神の家族が集まって礼拝することが出来なくなりそうなことだ。もう100人を超える感染者が出ている。ある調査では、沖縄の約半分の教会が礼拝を中止しているそうだ。教会とて、国が発令した自粛要請には応えなければならないと思っている。これこそ信仰の問題だ。教会は世の光だ。いたずらに世に反発することは異端のすることだと思っている。だから、私達の教会もこの事態に対処する為に、インタ―ネット礼拝を準備することにした。スマートフォンやパソコン等々を駆使して、各自の家庭礼拝が可能になるようにしたいと思う。私達クリスチャンは、主にあっての人生だから何も恐れるものはない。「主にあって」とは、とても良い言葉だ。ヨハネ16:33で、「私にあって平安を保つためだ」とある。「主にあって」と日常の口癖にしようではないか。又、ローマ8:28はすごく励まされる御言葉だ。「主にあってすべてが益に変わる」という約束だ。この艱難(かんなん)も、必ず私達にとって「益」に変わるはずだ。これこそ信仰ではないか。とにかくすべてが「主にあって」だ。ハレルヤ!

2020年04月12日 牧師 一口メモ

今年も「復活祭」がやって。通常「イースター」と呼ばれているのだが、当教会はあえて「復活祭」と呼んでいる。理由は2つある。1つ目は日本語で呼びたいからだ。立派な日本語がある。聖書も「復活」と言っている。最近ではコロナウイルスの件で、日本の政治家達が英語を連発していた。政治家だけではない。一番ひどいのがマスコミであろう。本当に嫌になる。このような方はけっこうクリスチャンの指導者にもいる。例を示そう。「リマインダー、ジャーナル、アジェンダ、ファシリテーター、グリーフワーク、デボ―ション、ミニストリー等々」。果たしてあなたは幾つ理解できるだろうか。
知識はとっても大事だが、聞いている人が分からない言葉を使っては何の役にも立たない。だからこんな知識は要らない。日本人は外国語に弱いから、英語を使えば知識人と思われているが、果たしてそうだろうか。東京都の小池知事がコロナウイルスの会見で英語を連発した。「パンデミック、オーバーシュート、ロックダウン等々」。さすがに批判の嵐に遭い、次第に日本語を使うようになったが…。
2つ目の理由は言葉の意味である。「イースター」の語源のことだ。これも何度も礼拝で話したが、もう一度詳しく記すことにする。この言葉の語源は、アッシリヤで、愛、快楽、豊穣、多産の神として拝まれていた女神「アシュタル」にある。旧約聖書の士師記2:13では「イシュタロテ」、Ⅱ列王記3:7では「アシェラ像」、エレミヤ7:18では「天の女王イシュタル」として登場する。いずれも同様な意味を持つ女神である。このア(イ)シュタロテが「イースター」の語源である。それでもあなたは一番大切な「主の復活」を、「イースター」と呼びたいか。主が恐ろしい十字架の苦しみを経て復活したことを、平気で「イースター」と言えるだろうか。私には考えられないことである。
私達は人が聞いて分かるような言葉を正しく使いたいものだ。クリスチャンの世界はあまりにも追従の社会でもある。例えばクリスマスの誕生劇に「東方の博士達」を登場させている。しかも昔からこの劇を行っている。聖書はそのようには記してないにも関わらず、今でも「博士達」を登場させている。又、牧師は「先生」、「牧師先生」と呼ばれている。政治家みたいに「先生」と呼ばれるのがあたりまえになり好きになってはいないか。立派な「牧師」という肩書が与えられているのに。あまりにも無頓着であると思う。
パウロはコリントで最も大切な教えとして「甦り、復活」を上げている。「復活」という言葉を使いたいものだ。アーメン。

2020年03月21日 牧師 一口メモ

クリスチャンになると色々な教えの中に入っていく。例えば、「日曜日は礼拝に参加する事」等々。クリスチャンになる前と後では、全然違った生活を送ることになる。又、「世の中の法律をしっかりと守るように」とも教えられる。だから、当然生き方が変わるのである。今迄の私の生き方は、「人が見ていないから、人に知られていないから、ばれないから少しくらいはいいだろう」だった。しかし、「生きている神様は、天から私達すべての人を見ておられる」と教えられてからは、「人が見ていなくても、天の父なる神様はいつもすべてをお見通しなのだ」と思うようになった。そして、「全能なる神様」であることも知り、恐れを抱くようになった。ただの恐怖とは違う。聖なる恐れだ。「あなたこそは、私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。(詩篇139:2)」これこそが全能なる神様の御姿だ。
クリスチャンになってから私が変えられた事の一つは、お金の使い方であった。今迄は、自分で稼いだ金なのだから、自分の為だけに使うのは至極当然のことだと思っていた。しかし、救われてから、お金の正しい使い方を教えられたのだ。これが教会の凄さだと思った。つまり、教会が、私のお金に関しての意識を変えてくれたのである。まず、「十分の一献金」に関する教えがあった。「この世のすべての物は神様の物である。だから、あなたの持ち物すべては神様が与えてくれたのだよ…」それを聞いて怪訝そうな顔をする私に、牧師がその意義を丁寧に教えてくれた。「月、星、太陽、水、空気、動植物…等々は、神様が、全ての人が楽しく生きられるようにと造って下さった。これらの物を利用してあなたはお金を稼ぐことが出来ているのだ。だから、あなたが稼いだ内の、十分の一を神様にお返しするのだよ」と。(マタイ5:45参照)私は納得した。それ以来、十分の一献金を欠かしたことは無い。その次に教えられたことは、「稼いだお金は、貧しい人や困っている人の為に使う」という事である。「あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。(申命記15:7~)」
この聖書箇所により、当然、私のお金に対する考え方が変わった。伝道活動で出会った苦しんでいる方々に、持ち物をよくあげたものである。ウォークマン、時計、TV等々。当然、お金も…。そのことにより、神様は、聖書の約束通りに私を祝福して下さったのである。半端な祝福ではない。ゆすり入れるほどの祝福を下さっているのである。(ルカ6:8)お金は魔物である。祝福にもなるし呪いにもなる。だからとても気をつけて扱ってほしい。アーメン。

2020年03月14日 牧師 一口メモ

聖書を学ぶ学校をつくる事にした。牧師・伝道師の肩書を与えるのが目的ではない学校である。とにかく聖書だけを学んでほしい学校だ。私がクリスチャンになって31年目になる。その間、強烈に感じてきたことは、多くのクリスチャン達が聖書を軽く見ている事だった。又、あまり聖書を読んでいないことがわかった。それは彼らと聖書の話しをする時によく感じた。特に、聖書に登場する有名人物は知っているが、他の人の事はほとんど知らない。聖書を読まないのは、ただ単に書物が好きとか、嫌いとかの問題ではないと思っている。クリスチャンである以上、聖書は、日々、霊の日用の糧として読まなければならないものである。例えば「モルデカイやアビガイル」が、どのような人物か、又、聖書のどの場面に出て来るのか知っているだろうか。おそらくはほとんどの方々が知らないだろう。クリスチャン達が聖書を読まないこと、知らないことに関して、私は非常に危機感を持っている。幸いにも私は、クリスチャンになってすぐに聖書の幾つかの感動した場面に出合った。「銀行」と「屋上の手すり」の出てくる場面等々である。(詳しくはメッセージで)それらの箇所を読んだ時に、私は聖書の凄さに感動し、毎日読み続けることが楽しみとなったのである。だから、今こそ、多くのクリスチャン達に、聖書の素晴らしさ、読む楽しさを教えなければと思って学校を開くことにした。今までも何回か神学校を開設しようとしたが、道は開けなかった。最近になって私は考えが変わった。「神学校も良いけど、もっと皆に聖書を詳しく教えるのが先ではないか…」と思うようになったのである。ですから、これから開設する学校名を「ナオス・バイブルスクール」にした。皆さんに発表した「沖縄ナオス聖書学院大学」の名称は当分お預けにすることにする。とにかくクリスチャンになったのだから、聖書が私達にとって命と同じ重さであることを学んでほしいのだ。又、聖書は、私達のクリスチャン人生を幸せに導く「神様から与えられた唯一の書物」であると知って欲しい。 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119:105)」
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です(Ⅱテモテ3:16 )」
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(ローマ15:4 )」
私は、聖書をどのように人生の中に、又、生活の中に入れるのかを教えたいのだ。そしてこの事を学べば、私達は楽しみが溢れる勝利に満ちたクリスチャン人生を送ることになる。これを約束する。だから皆が「ナオス・バイブルスクール」に入って欲しい。あなたに希望を与えます。幸せを与えます。アーメン。

2020年03月06日 牧師 一口メモ

コロナウイルスの話題が収まりそうにない。TVはこのニュースを連日一番に取り上げている。日本でも日に日に感染者が誕生する。だからニュースになるのだろう。いつ収まるか分からない非常に厄介なものだ。
疫病が聖書に登場するのは出エジプト記(紀元前1440)が最初である。「見よ、【主】の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。(出エジプト9:3)」つまり今から3460年前の出来事である。この疫病は何故に起こるのか。沖縄では先月(2月)に豚コレラが発生した。
これらの疫病の原因は3つある。
1.衛生面が悪い時。だから生活面をいつも清潔に保つ必要がある。住宅はもちろん、社会も常にきれいにすることである。日本は世界の中でも非常に清潔感のある国であろう。私は、これまでアメリカ、中国、台湾、韓国、グアム、アルゼンチン、イスラエル、カナダへ行ったことがあるが、日本ほどきれいで清潔な国はなかった。衛生面が特に酷い国は中国だった。今回も中国から発生したことにはある程度うなずけるところがある。
2.神様は食べて良い動物と食べてはならない動物を教えた。レビ記11章では、細かく動物の名前を上げて指図し、警告を与え、厳しく命じている。私が30年前に中国に行った時に、困ったことが2つあった。1つはトイレであった。2つ目は、ゲテモノ料理である。よく町の政治家達と会食をした際、サソリや猿の脳みそ等々のゲテモノ料理を勧められたが、私は全然手を付けることが出来なかった。コウモリを勧められたかどうかは覚えていないが…。しかし彼らは「珍味」と言って平気で食べていた。
3.神に対する反抗。出エジプト記7章~12章では、神に反抗した時に民はサタンに引き渡されたのである。サタンは喜んで疫病を使うのだ。
4.クリスチャンを迫害する時。預言者や牧師達を批判したり迫害したりすると恐いことになる。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。(詩篇105:15)」
ゼカリヤ書には「私の油注がれた者に触れる者は、私のひとみに触れるものだ」とある。現在、中国はクリスチャンを迫害している。教会が破壊され、牧師達が逮捕された。サーズも中国が起源だった。今回のコロナウイルスは全世界にまたがっている。これは霊的な大きな意味があるのだろう。一国の力では解決できないことは確かだ。アメリカ、ロシア、中国といった大国だけでも解決できない。全世界を支配する獣の登場も早くなりそうだ。礼拝が守られる様に祈ろう。アーメン。

2020年02月29日 牧師 一口メモ

コロナウイルスが一段と暴れまくっている。死者の数も徐々に増えつつある。そのような中で遂に安倍政権が小学校、中学校、高校の休校を発表した。何の準備も無く突然の政策発動だ。日本中を大混乱に陥れている。何か手を打たなければ批判は止むことが無いと判断したのだろう。しかし、行きあたりばったりの政策が功を奏することは無く、国民に受け入れられるわけがない。クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の時から何の手立ても出来なかった。危機管理がなされていなかったのだ。何事にもアメリカを頼ってきたつけが今頃になって露呈したのだと思う。しかし哀れなのは国民であろう。そんな安倍政権を選んでしまったのだから…。
今朝、早天の帰りにスーパーに買い物に行ってみると、トイレットペーパーの棚が空っぽなのに気付いた。ネットのデマに惑わされた方々が買い込んで行ったのだろう。又、ネットショッピングでは、トイレットペーパーが3~5倍の値段で売られているらしい。他にも色々な商品が売り切れているそうだ。日本中が惑わしの世界に完全に陥っている。これらの事はイエス様がちゃんと教えているので、聖書を正しく読んでいるクリスチャンは惑わされず、慌てることはないはずだ。「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『人に惑わされないように気をつけなさい』マタイ24:4」このような事を聖書は教えている。つくづく聖書の凄さが分かる。私達を狙っている敵、サタンがいることを知っておこう。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。マタイ24:24」聖書の示す通りに、これからも色々な自然災害、地震、疫病、戦争等々が起こるだろう。
しかし、一番怖いのは偽物イエスが現れることだ。イエスのそっくりさんが出てくる。(黙示録13:11)彼らは癒しや不思議を行って、クリスチャン達を惑わすだろう。ですから聖書をよく理解することが求められてくる。正確な答えは聖書にしかない。この事をしっかりと信仰をもって握っておこう。福音書ではイエス様が例え話を多く語っている。この例え話をしっかりと理解する必要がある。特にマタイの福音書は詳しく述べている。この例えは奥深い真理を示している。又、私達の日頃の生活を表しているので理解しやすいものでもある。勝利者になる為に聖書をしっかりと勉強しよう。アーメン。

2020年02月23日 牧師 一口メモ

「私には夢がある!」と言い放ったのは、かの有名な「マーティン・ルーサー・キング牧師」だった。とても感動する言葉だ。人に壮大な夢を与え、やる気を与える。大好きな言葉だ。私にも同じように「夢」がある。その一つに神学校の設立がある。初めからその夢を持っていたわけではない。牧師になってからである。クリスチャンになってから現在まで、周りを見渡して見ると、聖書をよく理解している聖徒が少ないことに疑問を持った。又、霊的な深い聖書解釈ができる牧師達を見ることも無かった。威張って言っているのではない。これまで私自身にものすごい影響を与えた霊的な信仰書は、外国人の牧師が書いた書物だった。ウォッチマン・ニ-、ロイド・ジョーンズ、リック・ジョイナー等々。まだまだ沢山いるが、彼らは皆外国人だ。特にこの3名からは霊的に大きなことを学んだ。おかげで聖書を読むのが大好きになった。毎日毎日読み続けた。だから私は神学校を造る夢を持つようになったのである。これまでも何度か挑戦してきたが、いずれも失敗に終わってしまった。その後、省みて失敗の原因を知った。そして、それらを踏み台にして、今年も果敢に挑戦することにしたのだ。私がこれまで学んできた聖書の深い意味と、御言葉の適用の方法を皆に教えたいのだ。今迄いつも他人を頼みとして、あらゆる講師を招いてきたが、今回からは勇気を持って思い切って、私自身が中心になってスタートすることにした。私は、今日までメッセージをはじめ聖書勉強会等も、すべて分かりやすく語り、生活に入れることが出来るように教えてきたつもりだ。キリストの社会は常に「上からの一方的な教え」と気付いた。下から質問が出来ない社会だ。だから、溢れるばかりの祝福を受けているクリスチャンが少ないと分かったのだ。本当に残念だと思った。そのようなことがあって、私の心の内に「神学校を造らなければいけない!」という強い決意が生まれたのである。神学校の名前は「沖縄ナオス聖書学院大学」に決めた。ナオスと言う言葉はギリシャ語で「神殿」と言う意味だ。早速、今年の4月からスタートしたい。日時は、毎週木曜日、午後7時30分から10時迄とする。(月4回)授業料は1回1000円にする。月にすると4000円かかるが、出来るだけ多くの方々の入学を希望する。2年目(来年)からは、本格的な聖書大学にするつもりだ。聖書を学んでイエス様に喜ばれるキリスト者になろう。アーメン。

2020年02月08日 牧師 一口メモ

いよいよ、楽しみにしていたマジックショーの伝道集会が始まる。2/8(土)、2/9(日)の2日間、本格的なプロのクリスチャン・マジシャンを招いて行う。手品(マジック)の好きな私にとっては非常に楽しみだ。私が最初に手品を覚えたのは19歳の時だ。バーテンダーとして働いていた店のマスターから、お客さんを楽しませるために強制的に教えられた。その時にはカードマジックが主だった。カウンターに座るお客さんに酒を注ぎながら見せていた。しばらくして、アメリカにいる従弟の叔父さんに呼ばれた。そしてラスベガスに遊びに連れて行かれた。まず、ホテルの大きさに度肝を抜かされた。日本では見たことがなかったのだ。そのホテルの1階フロアがカジノだった。学校の運動場ぐらいの広さで、数えきれないほどの人々でごった返していた。そのカジノは24時間眠ることなく動いていた。翌日は、ホテル内にある大きくて豪華なステージで一流のショーを見た。そのプログラムの一つにマジックショーがあった。初めて見るプロのマジシャンのマジックに驚いた。目玉が落ちるほどにびっくりした。以来、手品が大好きになった。今回は、私がクリスチャンになって、また教会にとって初めての本格的な手品伝道の企画だ。北海道で教会をしている牧師がマジシャンだ。だから期待せずにはおれない。
伝道は先に選ばれて救われた私達の大きな使命だ。伝道には決まった形がなくターゲットも様々だ。伝道の方法もトラクト配りを始め、個人伝道、路傍伝道、ラジオ伝道……と様々だ。日本と沖縄においてクリスチャンが増えない大きな理由は、私達が伝道しないからだ。多くの人は祈ればいいと言う。「祈りに期待している…」と。もちろん祈りほど大事なことは無い。しかし聖書は次のように言う。「 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2:14)」当然ですが、祈った後の次には「行い」が求められる。私は30年前に救われた。その当時は多くの教会が、よく伝道をしていた。私もクリスチャン実業家達を集めて、那覇市内で毎週トラクト配りをしていた。各自、所属している教会名が入ったトラクトを配った。とても楽しくて、伝道後はいつも喫茶店に入って遅くまでユンタク(おしゃべり)をした。頻繁に「祈り会」もした。最近は、そのような伝道を見ることが無くなり大変残念に思う。今、私達教会はラジオを中心とした伝道をしている。兄弟姉妹達が3つのFM放送局を使って伝道をしている。時間とお金を主に捧げ、奉仕をしている兄弟姉妹達を心から誇りに思う。アーメン。

2020年02月02日 牧師 一口メモ

コロナウイルスが世界に拡大中だ。私達も気をつけたい。予防は大事だが具 体的にどのように予防しようか。まず、教会の入り口に消毒液を置いた。そし て外出の際にはマスクを勧めたい。出来るだけ良いマスクが良い。マスクはあ まり効目がないと言う専門家もいるが、どうだろうか。私自身、科学者、専門 家、有識者というのは信用しないことにしている。彼らのほとんどが、社会に 自分の説を認めさせて「有名になりたがり屋達」だからだ。専門家というのは一 番信用できない。一つの例を示そう。50年前に「中東の石油は30年後には枯渇 する」と言っていた人達がいた。地質学者の専門家達だ。しかし現在も枯渇ど ころか埋蔵量がいくらあるかも分からないくらいある。こういう類は世界中に 転がっている。何か事故事件が起こったらTVには必ず専門家達が登場するが、 何をもって「専門家」と言うのかがよく分からない。カルロス・ゴーンの時に もコメンテーター達を含めて皆が専門家になったようだった。法律、警備の果 ては楽器の専門家さえ登場した。楽器ケースに隠れて脱出したからだ。しかし なぜ彼が命がけで脱出したのか、その理由をちゃんと述べることのできる方は 一人もいなかった。浅はかな専門家達だった。
聖書にも専門家達が登場する。その筆頭がガマリエルである。しかし彼が本 当に聖書の専門家だっただろうか。救い主イエスがこの世に来たが、彼をメシ アとして見分けることが出来ただろうか。答えはノーだろう。律法学者、祭司 長、パリサイ人達はどうだろうか。イエスはきつい言葉を彼らに放つのだ。「 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国を さえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせませ ん。(マタイ23:13)」サンヘドリン(国会議員)の偉い方々はどうだったか。 ある夜、ニコデモ議員が密かにイエスを訪ね問答を交わした。「しかしイエス は彼に言われた。『あなたはイスラエルの教師なのに、これくらいも解らない のですか』(ヨハネ3:10)」
現代でも多くの聖書学者や、専門家、教師達はいるのだが…。イエスによる 癒し、悪霊追い出し、死人の甦り等々は今でも教会で起こっている。あなたは 聖書の全てを信じているか。聖書は神の霊感で書かれていることを信じている か。聖書は霊の命の糧であることを信じているか。聖書の言葉は生きていて力 があると信じているか。聖書はあなたの人生の導き手だと信じているか。なら ば、あなたは本物の聖書の専門家であろう。良き指導者になってほしいものだ 。
アーメン。

2020年01月19日 牧師 一口メモ

クリスチャンとしての人生を謳歌している方々はどれ位いるだろうか。聖書には『幸せ・幸い』と言う言葉が多く登場する。天の父なる神様は、私達が人生を豊かに過ごすことを切に望んでおられる。聖書を読めば天の父の気持ちは察するに余りあるはずだ。放蕩息子の物語(ルカ15:11~24)はその代表ではなかろうか。都会に旅立った息子のことを心配し続けている父の姿を描写している。親というものは、いつの時代も子供のことを心配し続けるのだ。私は19歳の時に東京に行った。両親は仕方なく了解した。東京では仕事をするわけでもなく、友人のアパートに転がり込んでその日暮らしをしていた。持ち金もなくなって日給のアルバイトをした。しかし、きつくて2~3日働いてはやめることの繰り返しであった。ついに母に電報を打った。『帰るから金送れ』と。母は直ぐに書留で送った。しかし私の手元に届かない。なぜなら大家さんが、そのような人いないと送り返していたからだ。それもそのはず、私は大家さんに内緒で、勝手に友人のアパートに居候していたのだから。両親は大変心配して右往左往したそうだ。やっとお金が届いたが、大家さんにばれて追い出されてしまった。両親は大変心配して夜も眠れない日が続いたそうだ。何しろ当時はまだ祖国復帰の前だったから。
天の父はいつも天から地を見下ろしてご覧になっている。(詩篇33:13)
子供達(クリスチャン達)が心配なのだ。この日本、沖縄の社会はとても住みづらくなっている。特に子供達や孫達のことが心配だ。イジメが無くならない。逆に増える一方だ。しかも自殺にまでも追い込む陰湿なイジメだ。そして学校(教員達)も輪を書くように隠ぺい体質のままで一向に改善されない。原因の究明に立ち上がろうとしない。本当に命が軽い日本の社会になっている。又、様々な犯罪が誕生している。特に老人が『いいカモ』になっている。オレオレ詐欺どころではなく、政府自体が年寄りイジメを続けているのだ。段々と年金の支給が遅れてきて、75歳からの支給を始めようとしているらしい。若くても辛い世の中、年を取っても辛い世の中。天の父が心配するのもよく分かる。
しかし、愛なる天の父なる神様は私達に呼びかける。「私を見上げよ」「私を頼れ」「私を呼べ」「私に近づけ」と。その時に私はちゃんと「アーメン!」と応える。
マタイ 28:20『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』
聖書の御言葉通りに、イエス様がいつも共におられるから「ハレルヤ!ハレルヤ!」とクリスチャン人生を楽しもうではないか。

2020年01月12日 牧師 一口メモ

年末に世界的なニュースが飛び回った。日産自動車元会長のカルロス・ゴーン氏が日本を無断で不正脱出したのだ。半年近く拘留されて、保釈金15億円を積んで釈放された。しかし奥さんとは会えず、友人達ともそう簡単には会えなかった。様々な縛りがある釈放だった。人権なんか何もない生活を強いられていたそうだ。恐らくは不公平な日本の司法制度を、嫌というほど体験したのだと思う。だから日本ではまともな裁判は受けられないと強烈に感じて、脱出を図ったのだ。私は正しい判断だったと思う。なぜなら彼はインタビューに次のように答えている。「釈放後、『妻と何とか会えるようにしてほしい!』と何度も裁判所に陳情した。そして裁判官と面談が出来た。その時に、『何で奥さんに会いたいのか?』と聞かれた。とても信じ難い質問だった。自分の妻に会うにも日本では理由がいるのか?だから命がけで脱出を決意したのだ」と。又、日本のTVコメンテーター達も、裁判官と同じ様なことを言っている。「奥さんに会うのがそんなに大事なことか?」と。気違いだらけなTV出演者達には開いた口がふさがらない。奥さんを大事に思わない君達の方がよっぽどおかしい人間だ。その日は腹が立って「日本のマスコミは滅びろ!」と思わず叫んでしまった。母の日に『母に優しい国』のランキングが発表されたが、日本は32位だった。まさに後進国のたぐいだ。産んで育ててくれた母親を大事に出来ない国民。自分の奥さんにも同じような感覚ではないか。女性蔑視は至る所で起こっている。一昨年は大相撲で『女性は土俵に上がれない』という騒動が起こった。まともな国ではない。『誰がこんな国にした!!』女性達は今こそ怒るべきではないか。聖書は私達に教えている。「創世記2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」結婚したら夫婦は一心同体だと言うのだ。動物並みの日本人には、聖書を読んでまともな人間になって欲しい。妻は自分と同じくらい大事な方であると知って感謝しよう。「エペソ5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」イスラム教・仏教・ヒンズー教は女性を物として扱っている面が所々出てくる。日本も仏教の教えが基礎だから、そのような感覚が今も社会にはびこっている。だからこそ、キリストの教えを、社会に学校に家庭に取り入れるべきだ。今年はクリスチャンが増えて少しはまともな国に変わって欲しいと思う。だから私達は、今年も伝道や証に大胆に挑戦したいものだ。アーメン。

2019年12月29日 牧師 一口メモ

今年最後の一口メモとなった。色々な世相と聖書を照らし合わせて記してきた。今年は天皇の引退によって元号が新しくなり「令和」となった。マスコミが騒いで多くの国民は目をくらまされた。良くても悪くてもマスコミは商売主義だとはっきりわかった。いや、悪の根源だと確信した。金儲けの為には正義なんか吹っ飛んでいく。又、商売主義はうまく権力者に利用される。そしていつも踊らされるのは国民である。しかし残念だが多くの国民はそれに気づいていない。いつの時代も社会に必要な物は「正義」である。つまり「神の義」なのだ。キリストの社会もその「義」を失っていた時期があった。パリサイ人や祭司長達が権力を握っていた時代だ。彼らは神の義よりも先祖からの言い伝えや自分たちの聖書理解を優先させた。そして権力を最大限に行使してユダヤの国民を支配した。そのような時に希望の星イエス様が天から来られた。その時期はまさにローマに支配され、搾取され、それに同調するユダヤの指導者達はやりたい放題だった。そして国は疲弊していた。そのような中で、国民の一部はメシヤを待ち望んでいた。メシヤに希望を託していた。
今の日本、沖縄を見事に表している。この国は年々貧富の格差が広がっている。権力者たちは嘘と欲にまみれて「正義」を捨てている。三権分立(司法・立法・行政)も完全に死んでいる。又、国民も目を閉ざされている。「令和」を発表する時にそう強く感じた。国民はこの令和に大きな期待を持った。しかし現実はどうだ。自然災害は列島を何度も襲い、甚大な被害をもたらした。子供への虐待やいじめは増え続け、死までも招いている。あおり運転は日常的に起こり、年配者による逆走、暴走は後を絶たない。老人施設での虐待も年々増え続けている。特養(特別養護老人施設)の待機者は32万人余に上った。そして少子化はついに悲劇的な数字(80万人台)になった。子供の誕生が年々少なくなっている。いつか、いや近いうち本当に「うばすて山」が来るだろう。
沖縄はどうか。辺野古への基地建設予算が約一兆円近くになったそうだ。当初の3倍に増えた。一番の無駄使いだ。引きこもりは758人いて、その内50代が18%いる。貧困者は増えるばかりなのに消費税も10%になった。ますます生活負担は大きくなった。これらはすべて「令和(今年)」の事だ。国民の皆が夢遊病者に陥っているとしか思えない。しかしキリストの世界は希望でいっぱいだ。日本、沖縄でキリスト者はわずか1%しかいない。だからこそリバイバルが期待できる。「今年こそ、今年こそ…」とすべてに期待して活動している。ある2人の人がアフリカに靴を売りに行ったそうだ。1人は皆が裸足だったので「希望はない」と本社に連絡した。もう1人の人は裸足の人たちを見て、「ヤッター!!みんなが靴を買うようになる」と思った。そして本社に「靴を送れ」と連絡した。今年もリバイバルの夢はかなわなかったが、しかしクリスチャンが1%しかいないからこそ伝道がしやすいのだ。刈り取りは大きいのだ。私には来年も大きな希望がある。魂の刈り取りという素晴らしい希望だ。アーメン。

2019年12月14日 牧師 一口メモ

新聞の気になる記事を切り抜いて、分野別に約12項目分けて保管している。政治、戦争武器、宗教、教育、子供、LGBT等々。特にコラム欄には面白い記事が載っている。毎日切り抜いているから、かなりの量が溜まっている。(タイムス「大弦小弦」、新報「金口木舌」)なぜ切り抜いているのか?理由は、メッセージやラジオ伝道の話題に使えるからである。又、皆さんに正確な情報の提供が出来る。もう一つの理由は、将来、子供達や後輩達に時代の流れを正確に伝え、教えることが出来る。昔はどんな時代だったかがよく分かり、良くても悪くても今の時代と比べることが出来る。そして、これから先はどんな社会になっていくのかが正確に予測や判断ができるためである。50年、60年前よりも今の社会がどれほど恐ろしい社会に変節しているか、新聞の社会面や政治面を読めば一目瞭然である。(人間の記憶は全然あてにならない)
今月はクリスマスの月である。ひと昔前のクリスマスは、社会挙げてイルミネーションが町中に溢れていた。クリスマス商戦も華やかに行われていた。クリスマスにはデート出来る彼女がいないと馬鹿にされたものだ。それくらいクリスマスはロマンチックで夢があった。そう感じていたのは私だけではないだろう。しかし、今はスマホやらネットやらで、外に出て星空を見上げる者はいない。今夜はほぼ満月である。天気もいいから丸い月がとてもきれいに見える。興味ある方は、今夜は空を眺めてみるのもいいと思う。イエス様の誕生を聖書から見て、羊飼い達の心になって天使達の御告げを想像するのもいいと思う。月や星が輝いている時に、ルカ2:9-10(すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。」)何だか2000年前にタイムスリップしたようになるかもね。
今の世界情勢や日本、沖縄を見てみると、迎え(再臨)が近いと思わざるを得ない。イエス様はこの世に誕生して新しい社会を作り上げた。しかし世界はなかなか神様の思う通りには変わらない。人間にとって最高の住み家である地球が与えられた。海や山々、自然の木々や花々も感動を与えるものばかりだ。動物だって可愛いものが沢山いる。犬や猫は身近にいて人間を喜ばせるし、心を癒してくれる。しかし人間は、海を埋め立てたり山を削ったりして自然を壊してばかりいる。そのつけが異常気象につながり、台風や豪雨となって人間に襲いかかってきている。来年はもっと大きな災害が来るかもしれない。又、世話がめんどうになり、犬や猫を平気で捨てて行く。救い主の御誕生をお祝いするこのクリスマスの時に、自然や動物のことも考える必要があると思う。

2019年12月8日 牧師 一口メモ

「牧師一口メモ」を読むのが楽しいと言う方が多い。そのような声を聞くのはとても嬉しい。一段と気合が入る。今日から私達のグループはクリスマス会が始まる。今日は西原ベタニヤでのクリスマス礼拝と祝会がある。エデンハウスの皆さんに楽しんでほしいし、沖ベタ、ゆいまーるからも多くの方々が参加してほしい。西ベタの皆さんが一生懸命に教会を飾り、クリスマスの雰囲気を醸し出している。彼らは自分の教会を愛する心が強い。だから教会を盛り上げる為に、しっかり考え、心を込めて一生懸命に奉仕に携わる。何か物事をなす時に完全さを求めることはとても良いことである。どうせやるならしっかりやったほうがいい。自分を満足させ、人々に喜ばれ、褒められることを目指したら良い仕事が出来る。その為には一つ一つ真剣に考えてやることだ。主の祝福がありますように。アーメン。
「中曽根康弘」と言う政治家が亡くなった。101才だった。あだ名は「青年将校」、「風見鶏」だった。60年前の衆院本会議場で、若さにかまけて「われわれは新憲法の元、戦争を放棄した」と、当時の吉田茂首相の姿勢を正したそうだ。「自衛隊の前身の警察予備隊創設」に憲法違反だと批判した。背も高くてかっこいい青年政治家だった。しかし「風見鶏」のあだ名がつくように、変節は激しかった。段々と力がつくと自主憲法制定を掲げるようになった。首相の最高権力を得た後、「英霊が祀られている靖国神社」を参拝した初の首相になった。「風見鶏」の面目躍如の如くに長生きしたが、憲法改正に執念を燃やした「国粋主義」の人生だった。今の日本の社会の右翼化、天皇崇拝強化、ヘイトスピーチの環境の基礎を作った張本人である。今の安倍政権がそれを引き継いだ。そして、嘘とごまかしと忖度の政治家達を作り上げてしまった。そのお蔭で、一部の金持ちたちが支配する国へと変わった。完全に政治家や官僚や司法(裁判官、検事、警察)のトップ、教育やマスコミのトップ達までが狂ってしまった。「桜を見る会」のいい加減さは目に余って泣けてくる。子供に日本刀(刃物)を持たせたようなものだ。それを国民は気付く時に来ている。しかし他人事ではない。聖書にもそのようなリーダー達が登場する。「アモス2:8彼らはすべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取りたてたぶどう酒を自分達の宮で飲んでいる。」これがイスラエルの指導者達だった。貧しい者を顧みず、自分達のふところを増やし続けた。これが今の日本の姿である。クリスマスの中にあって私達クリスチャンは何を祈ればいいのか、何をなすべきかを祈ろうではないか。主の憐みを求めて。アーメン。

2019年12月1日 牧師 一口メモ

今年の最終月になった。いやはや月日の経つのが早すぎる。もう少し遅く、ゆっくりと地球は回転すればいいのにとつくづく思う。
今月はクリスマスのシーズンです。わずか一月をシーズンと言って良いのか分からないのだが…。とにかく日本のみならず、世界のクリスマスである。このクリスマスほど世界中の人々に愛されている祭りはないだろう。祭りと表した方が良いだろう。イエス様の誕生日を世界中の方々がお祝いしてくれる。クリスチャンはもちろんだが、クリスチャンでない方々も祝ってくれる。又、他の宗教を持っている方々も祝ってくれる。クリスチャンとしてこんな嬉しいことはない。感激する。ハレルヤ!
しかし、ちょっと寂しいものがある。ひと昔前よりも、クリスマス定番のイルミネーションの飾りが街中から減っていることである。以前は、ほとんどの会社やお店にはイルミネーションの飾りがあった。まだ所々で見受けることは有るのだが…。クリスマスはイエス・キリストの誕生日だ。それが、いつの間にか社会では「サンタさんが来る日」に変わってしまった。ほとんどの子供達が「サンタさんの日」と信じている。いや、大人達も本当の意味は分からないのかもしれない。このようなことになったのは、私達クリスチャンの大きな責任だと思う。何しろクリスチャンが少ない。だから残念だが、社会に何ら影響を与えることが出来ていない。きつい言葉で言えば「箸にも棒にもかからない」。ですから、ある面ではクリスマスには一番悔しい思いを抱く。そして、何も出来ない牧師の自分を責める。又、神様を責める。「なぜですか?なぜリバイバルを起こさないのですか?」と文句を言うのである。イエス様を人間の姿にして、一人のユダヤ人の若い女性のお腹を借りて、この世に誕生させた。このことを信じきれるクリスチャンは偉いと思う。考えて見れば、まるで不思議な幻想の世界のように描き出した神様のご計画は、そう簡単に信じきれることではない。だから私は、自分の所に伝道に来た女性を馬鹿にしていた。しかし、伝道されて2年たった頃から教会に行くようになり、いつの間にか私も信じられるようになった。その秘訣は聖書をよく読んだからである。読んでいくうちに聖霊が働き、聖書の言葉が理解できるようになったのである。又、聖霊の存在を知って、聖霊の働きまでも体験するようになった。学校で教える学問の知識がいかに愚かな教えなのかを知った。聖書こそ人間に最も必要な書物だと心から分かったのだ。クリスマスは「我らの救い主の到来だ」これほどの最高の喜びはないと思う。天の父に感謝しよう。

2019年11月9日 牧師 一口メモ

今は首里城の焼けたニュースがマスコミの一番の報道になっている。再建に躍起になる県庁。政府もいつもなら腰が重いのに、珍しいぐらいに早く支援を約束した。しかし再建はそう容易ではない。再建費用が約120億円必要らしい。又、木の材料がない。宮大工がいない。瓦も難しい。マイナスだらけの状況ばかりだ。もっと考えなくてはならないものがある。再建は賛成であるが、消極的な賛成だ。一つ目は龍の神話がまた登場することである。既に龍柱は大丈夫だったと写真付きで報道している。二番目が大きな理由だ。それは沖縄の幾つかの企業がいとも簡単に1000万円単位で寄付をしている。ある企業は5年間で5億円を寄付するそうだ。既に一般の寄付が4億円を超えたらしい。良い事のように思えるが、深く考えてみると手放しで喜ぶことが出来ない。なぜなら貧困の子供達への寄付金は雀の涙ほどである。沖縄は子供の貧困が30%弱で、3人に1人が貧困の家庭だ。残念ながら命よりも朽ちる物への未練が強いようだ。命への取り組みには腰が重く、個人の責任を追及するのが常だ。又、今年も自然災害で多くの国民が被災に遭った。しかし政府の動きは遅く、「国民の命と財産を守る」と公言しながら、いざとなると腰を上げない。自然災害は個人責任には当てはまらないはずだ。このような時こそ政府が被災の個人を助ける時ではないのか。しかし、千葉県では未だ停電の所があるそうだ。避難生活を余儀なくされている方々も多い。何故に政府の動きは遅いのか。もっと分からないのが被災者の方々の考えであり国民の考えである。このような非情で無策な自民党政府を選ぶのである。本当に分からない国民だ。

聖書はどのように私達に教えているのか。国民はどうあるべきか。政府はどうあるべきか。権力者たちはどうあるべきか。一つ考えて見ようではないか。イスラエルの歴史は面白いことを教える。良い王と権力者たちが登場すると、国は栄えるし国民も平安に満たされる。しかし悪い王とその側近者達が権力を握ると社会は悪くなる。そして国民は主に叫ぶ、「助けてくれー!」と。主はなさけ深いから助ける。しかし社会が安定すると、国民は自己中に陥って悪い考えを持つ。そして他国に支配され奴隷になる。又主に叫ぶと主が介入する。これの繰り返しである。私達の信仰がまさにそうではないかと思う。問題が起こると祈る。そして主との交わりに入る。しかし祈りが聞かれるとすぐに祈らなくなる。聖書も読まなくなり、主を悲しませる。エレベター信仰は主を喜ばせることは出来ない。いつでも主が共にいることを確信して(マタイ28:20)、日々主と豊かなる交わりをなし、恵みの信仰を持とう。アーメン。

2019年11月03日 牧師 一口メモ

首里城が燃えた。しかも本殿,南殿、北殿とあわせて6つの建物が全焼した。信じがい難いことが起こった。私は「梨恵姉妹」の解放の祈りで前夜から教会に泊まっていた。早朝5時に電話のベルが鳴ったので何事かと思ったら、「首里城が燃えています」との緊急の知らせだった。まさかと思い「朝日のあたる家」の屋上に上がって東方の首里城あたりを見ようとしたが、ビル群に阻まれて何も見えない。それで、急いで下りて行って車のTVでニュースを見たら、何と首里城が真っ赤な炎に包まれているではないか。しばらく呆然と見ていた。何しろ首里城は沖縄のシンボルだ。この3日間、首里城炎上のニュースで一杯だ。本土でも大きなニュースになっている。今朝の新聞に「体が削られた気分」と市民の声として載っている。また昨日は「心の支え失った」と大きな見出しで掲載されていた。本当にそのように心から感じているのだろうかと少し疑った。首里城はあなたの何だったのかと聞かれたら心からそのように答えるだろうか。確かに450年の長きに渡って沖縄のシンボルで、王府であり政治の中心だっただろう。しかし、県民を心から支えて来たのかと考えると複雑な思いがある。
城を造るのにどれだけ重税が県民に課せられただろうか。貧民からも搾り取っただろう。いつの世もそうだが、はたして国が国民や県民の命や財産を守るだろうか。この「城」が「心の支え」になるのだろうか…。聖書サムエル記に、「王を下さい」と民衆が神に願った箇所がある。神は預言者サムエルを通して、「王は私だけで充分」と答えられた。しかし民衆は引かなかった。「私達には先立つ王が必要です」と。仕方なく神様は答えたが、戒めもした。「願いどおり王を与えるが、あなた方の子孫は苦役に服することになる」と。それがイスラエルの最初の王の誕生の経緯だ。3代目のソロモン王は贅沢の限りを尽くして重税を課して民衆を苦しめた。沖縄戦で日本軍は首里城を本営として兵隊を配置した。そのお蔭でアメリカ軍の空襲を受けて、首里城は歴史上3回目の炎上となった。その後、復帰20周年を記念として復元され、昔の王朝が現代に出現した。私は3回ばかり行ったが、竜の偶像が建てられているのには参った。かつてはイスラエルにも大きな神殿があり、それはイスラエルの誇りでありシンボルでもあった。弟子達はそれを自慢したが、イエスは言った。
(マルコ13:1~2) イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
目に見えるものは何時までも残るものはない。目に見えないが「イエス」こそあなたの人生のシンボルです。アーメン。

2019年10月05日 牧師 一口メモ

政治の話をしょう。今、日本で一番注目を集めている政治家は「れいわ新選組の山本太郎」であろう。なぜ注目を集める様になったのか。彼は参議院の時代から小沢一郎と組んで活躍した異端児であった。国会での質問が歯に衣を着せぬ質問を平気で繰り返して政権を追及していた。その質問も国民の身近なことが中心で非常に解りやすかった。そして、先の参議院選挙で国民の生活に直結する「消費税」を取り上げて、「山本太郎」旋風を巻き起こした。また社会の異端児達を10人集めて戦った。そして2議席を獲得した。当選した2人は、重度の障害を持った方々であったので国会を慌てさせたし、異端児の面目躍如で、社会の目を覚まさせることに成功した。今までの政治家達と非常に異なる考えを持っている。正に庶民の為に登場した政治家である。そして非常に理にかなった政策を挙げて、財務省の役人たちの嘘を暴いている。また政府を始め議員達の無能さを浮かび上がらせた。常に権力に立ち向かい、弱者の為の政治を掲げている。今までこの日本に出現したことのない本物の政治家であろう。日本にやっと期待が見えてきた。そして「光」になろうとしている。今の日本の社会は、勝ち組と負け組に分かれている。勝ち組は政府につく少数の方々と大企業である。彼らはその政府の庇護下にあって、弱者を守るどころか多くの弱者を生み出し続けている。その筆頭が「消費税の10%」政策である。国民の無知ぶりを幸いに、なりふり構わぬ政治を行っている。この国のすべてが正常に機能していないことは明白である。政治家や官僚達を始め、裁判所や検察警察は正義をかなぐり捨てて、政権政治に忖度(そんたく)をするばかりで、国民の命と財産のことは少しも頭にはない。あるのは名誉欲と金銭欲と自己中の生き方である。それに加えて、毎年毎年災害のオンパレードである。神様が何かを示しているようだが・・・誰も気づかない。
日本のキリスト教会はどうだろうか。聖書は私達に平安と将来と希望を約束している。そして日本のクリスチャンの目を覚まそうとしているのだが・・・。牧師か伝道師の異端児の登場を待つしかないと思っている。ユダヤの社会で安穏としていた指導者達やユダヤ教の国民の中に、突如登場したバプテスマのヨハネ、マリヤから生まれたイエス、そして12弟子達やとげの付いた棒を蹴って足を痛めたパウロ(使徒26:14.)。何の代わり映えもしない日本のキリストの教会の世界。それでも安穏としているクリスチャン達。まさにイエスが登場する前のユダヤの世界と一緒ではないか。この異端児たちは強烈な個性を持っていた。いや持たされて変えられたと言った方が良い。彼等はユダヤの世界を変えた。あなたも日本沖縄の異端児になろうではないか。アーメン。

2019年09月29日 牧師 一口メモ

カナダのトロントブレッシングに行ってきた。皆さんのとりなしの祈りに感謝する。お蔭さまで、無事に聖霊の油注ぎを受け、聖霊の火をキャッチしてきた。この聖会のタイトルが「キャッチ・ザ・ファイヤ―」であった。参加者全員が、素晴らしい聖霊体験をしたい!と強い思いを持って参加していたと思う。この聖霊の油注ぎと聖霊の火を皆さんに注ぎたいと願っている。
聖会の前に少し観光もした。世界3大滝の一つ「ナイアガラの滝」を見て来た。スケールの大きさに度肝をぬかさんばかりだった。とにかく大きくて迫力満点で非常に美しい滝だった。巡りながら神様の愛に感謝した。このような美しい滝も人間を喜ばす為に造られたのだと思うと感謝せずにはいられなかった。神様が人間を本当に心から愛しておられるということを強く感じた。是非一度は皆さんも行かれてみたらいいと思う。(旅費は約20万円)
今回の旅行は大きな学びが出来た。まず1つ目は、聖霊の働きの凄さを目の当たりにして、聖霊の働きがいかに大事かを学んだ。2つ目に聖霊の働きを妨げてはならないことを学んだ。人間がする事には限界がある。しかし聖霊の働きは無限である。聖霊が働くと人間はどうしようもなく、一切が聖霊任せになってしまう。立つことも座ることも伏すこともすべて聖霊任せになる。笑いが突然起こる。この笑いも自分で制御できなくなり、止めようにも止まらない。声や奇声を発することも聖霊によるものになる。感情までも支配するお方なのである。又、聖霊との楽しみかたを教えられた。私は自分勝手にこのようなことを「聖霊との遊び」と名付けた。使徒の働きには聖霊の働きがたくさん載っている。(使徒2:1~4)とにかく聖霊なしでは私達は何も良き働きはできないと断言できる。これからは礼拝スタイルや服装も変わることになるだろう。外側だけでなく内側をもっと大切にして行きたい。神様は常に私達礼拝者の内側を見ておられるのだから。(Ⅰサムエル16:7)
神は十字架で人間に対する愛を示したと思っていた。しかし、十字架の愛だけではなく、地球上の大自然や動植物を用いて人間に対して愛を示された。美しい花々、可愛い犬や猫も…。その愛のゆえにすべてを人間の為に造られたのだ。人間が喜ぶ姿を見ることが神の喜びとなったのだ。神様の愛の深さを改めて感じ、只々感謝するのみである。ですから私達もお互いに愛し合うではないか。愛されているのだから。アーメン。

2019年09月15日 牧師 一口メモ

全てのクリスチャンには何らかの使命がある。神様のご計画は私達には分からないが、しかし素晴らしいものであることは間違いない。最高の人生を送る約束である。その準備を怠ってはならいと思っている。それはまず、神様を喜ばすことである。それが私達にとって幸せなことである。
何を準備するか。1番目に聖書を読み勉強することである。聖書を読むことは力をつけることになる。力がないと良いキリストの兵士にはなれない。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。(Ⅱテモテ2:3)」
何故に強くならなければいけないか。問題に打ち勝つ為である。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。(Ⅱテモテ3:1)」困難な時代を迎えることになるという。今はその聖書の言葉の通りだと思う。国際的に多くの国々が争いを起こしている。例えば、仲が良かった隣国の韓国との喧嘩である。しばらくは静まりそうでない。沖縄にもその影響が起こり始めている。韓国からの観光客が減った。武力の衝突にもなれば、戦前の天皇中心の暗黒国家になる恐れが十分にある。また、「不法がはびこり人々の愛は冷えて行く。(マタイ24:12)」これは個人的な問題をも指している。つまり問題、悩み、批判、中傷が増えてくることをも示している。それらに負けてはならない。また生活の窮乏にも打ち勝たなくてはならない。聖書の言葉には力がある。聖書を読んむことは心、魂が強くなることである。「神の言葉には力があり、両刃の剣よりも鋭い」アーメン。だから聖書を読むのである。日々の日課として何よりも聖書を優先してほしい。2番目は祈りである。祈りは2つの方法がある。「個人的な交わりの祈り」と「グループによる祈り」である。イエス様はよく1人で祈っておられた。天の父との交わりをしていた。「朝に夕に…。(マルコ1:35 ルカ6:12)」とても大切なことである。なぜなら天の父との一対一の会話であるからだ。ダビデも詩篇の中で、よく1人で祈っている。(詩篇16:8)叫びながら、怒りながら、絶望の中にありながらも希望を捨てずに。最後は心を注ぎ出して感謝の祈りでいつも締めくくっている。次にグループによる祈りである。使徒の働きではペテロや母マリヤを中心に一カ所に集まって祈っている。(使徒1:14)このグループでの祈りによってリバイバルと数々の奇跡を起こしている。(使徒2:1。12:4~5)水曜日はグループの祈りをする時である。リバイバルの為に集まろうではないか。「主の御言葉は、ますます盛んになり、広まって行った。(使徒12:24)」これが私達の備えである。牧師、伝道師、教師、教会の役員、預言者、執り成しの祈り手、癒し解放の役目、教会の管理者等々様座な役目がある。もうやがて来るであろう。アーメン。

2019年09月01日 牧師 一口メモ

この社会には心理学を始めとして様々な教えがある。しかし、それらの基本はすべて統計学に基づいている。つまり人間を様々な角度から研究し分類して行くのである。例えば企業の社員は4つのタイプに分かれると言う教えがある。①一生懸命に働き会社に貢献するタイプ(30%) ②普通に働いている方々(30%) ③自分の給与の分さえも稼がない人(30%) ④安全に足を引っ張っている方(10%)。このような統計で分類する。又、社会には3つのタイプの人間がいるそうだ。①肯定派 ②否定派 ③どうでもいい無関心派。あなたはどのタイプと思うか? 少し考えてみてもいいと思うが…
聖書は恐ろしいことに、すべてにおいて超肯定的(ポジティブ)な教えに満ちている。神はノアと言う人に舟を作れと命じた。しかも100m級の大型船である。5000年前の話しである。御存知のようにノアは出来ると信じて造った。アブラハムは何処に行くのか分かないが神が命じたとおりに出かけた。そして子供も財産も与えられて最高の人生を送った。ヨシュアとカレブは、神の約束の土地を巡った時に、素晴らしい土地だと知り、実際にはまだ目にしていなかったが、ここはまさに「乳と蜜が流れている」と信じた。他にも多くの先輩の偉人達がそのような超肯定的な信仰を持って生きた。では、私達はどうだろうか。どのような信仰を持っているか。私は天地万物を創られた神、今も生きておられる神、そして何でも出来る神を信じている。だからクリスチャンになってからは、ものすごく愉快な人生を歩んでいる。もしクリスチャンでなければ、そのような楽しくて希望ある人生は送れなかったはずだ。又、将来だけでなく死んだ後にも最大の希望を持つことが出来ている。そう言うとそれこそ気違いと言われるだろうし、ただの口先だけと片づけられるだろう。それでもいい。私の信仰なんだから誰に何と言われようと構わないし、全然気にしない。パウロは信じ難いことを言っている。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。(Ⅱコリント5:8)」これこそ気違い信仰だ。死後の世界に希望を持つ大馬鹿がいた。パウロも超ポジティブな信仰を持っていたのだ。問題、悩みを誰よりも多く抱えていたパウロ。しかし彼は天国信仰を持っていたのである。
あなたは何でも出来る神があなたの中に住んでいることを信じるか。ならばもうあなたの辞書には「でも…」「しかし…」はないはずだ。何でも出来る神は、あなたに預言者(モヨ師)を通して未来を示した。信じて素晴らしい人生を送ろうではないか。

2019年08月25日 牧師 一口メモ

北海道にて一口メモを書いています。雄大な大自然に感動している。また、天の父の御業の素晴らしさと日本人をどれだけ愛しているかを知らされている。そして2000年の忍耐をもって今日迄こられている。また赦しの父さんであることを、この自然を見て感じている。松林の中に建てられている三浦綾子記念館を訪問して父の愛の凄さをも知った。今回の伝道旅行は初日から奇跡の連続で神の愛を体験し続けている。ただ感謝のみである。

4日目になるが十字架を見ることが出来ないのが辛く、残念である。お寺は数えきれないくらい見た。いつ日本人は本物の神の愛を知るのだろうか。又、愛は赦し続けることだと知った。なぜなら四季の彩りを通して常に人の心に感動を与えている。これが証拠であろう。

キリスト教のテーマは愛である。しかしイエスの愛は一時的なものでなく、感情的なものでもなく自己中心でもない。2000年にわたってキリストは愛し続け赦し続けてきた。北海道の大自然を見ながら心に強く感じた。そして人の愛と自分の愛を考えてみた。いや考えさせられたと言った方が正確だ。自分の愛は十字架の愛だろうか。感情的な愛を十字架の愛と勘違いしていないか。人に教えながら聖書を説きながら自分の思う通りの人になってほしいと願いながら愛していないだろうか…。

人間は弱いものである。ある人はとても弱い。だから人に甘える。人の目を自分に向けさせようとする。そして人の目から見て悪いことをする。その心の深層は愛されたい、愛してほしいと叫んでいるはず。幼い時から親の愛を知らずに生きてきた。いや逆に叱られ、罵声を浴びせ続けられ、言葉でズタズタに切り裂かれてきた。このような方をどのように受け入れ愛すればいいのか。教会の大きなテーマではないだろうか。そして牧師の一番の役目ではないだろうか。素直でいい子、いい人は愛し易い。誰でも問題を起こさずにいたい。人から嫌われたくない。これは大人も子供も変わらない。だから人の目を気にする。当然なことであると思う。私だって皆さんから好かれたいし、愛されたい。いい牧師と言われたい。これが本音だ。中毒(依存症)の方がいる。人はある程度強弱の差はあれど何かしらの依存性を持っている。その依存している物を奪われたらどうなるだろうか。もちろん悪い依存症は直さないといけない。しかしその依存を何で埋めるか、簡単ではないと思うが。

北海道の大自然の摂理をプログラミングした父の愛を体験しながら…とにかく愛の人になりたい。イエスの十字架の愛を実践できる人になりたい、言いようのない変な感傷を持ちながら書いている。

イザヤ書65章18節「だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」
人生を楽しめていることをイエス様に感謝したい。アーメン