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沖縄ベタニヤチャーチの山内牧師のブログです。毎週更新しています。

2019年08月17日 牧師 一口メモ

私が信徒の時にクリスチャン実業家グループを立ち上げた。18~19人の勇士たちが参加した。色々なことをした。私自身も信仰に燃えていて楽しく活動をしていた。将来は会社を経営しながら伝道者になって世界を回る夢を持っていた。ただ、乞食伝道者にはならないと心に決めていた。つまり献金を当てにせず、自分の金で伝道をして、教会や牧師、信徒の皆さんに媚びを絶対に売らないと決めていた。そして一生懸命に奉仕に勤しんでいた。ある時、預言者(ヘンリー・グルーバー師)が沖縄に来た。そしてお付き合いでこの方の預言を受けた。彼が初めて沖縄に来た時だった。そこで私は初めて個人預言を受けた。25年前のことである。覚えているのは①あなたは牧師になる。②教会で傷を受けた方々を受け入れて励ます。と言うことだけである。他にもいろいろ言われたが預言が長かったことは覚えているが内容は忘れた。その預言通りに5年後に牧師になって今に至る。 救われて預言について教わったことは無かった。だから預言の重要さも分からなかった。だから軽く受け止めていただけだった。その後も私は伝道者を目指して教会の奉仕、伝道、祈り、聖書を読むことに一生懸命であった。ただ、よく勉強した。ライフセンターにもよく通った。おかげで愛する家内にも出会えた。しかし、神の計画に従わないので訓練が始まった。厳しい訓練だった。特にお金の取り扱いの訓練だった。そして会社はつぶれ、超貧の中に入れられた。もの凄い訓練だった。服一つ買えなかった。電気、水道、ガス、電話のライフラインがいつもズタズタだった。

皆さんも預言を受けたはずだ。神の計画は全然変わらない。神は必ずその道に従わそうとする。しかし私達の心を尊重する。つまり私達が決断するまで訓練をするのである。つまり苦しみの中を歩むことを意味する。どうぞ素直に従って備えをしてください。神様の計画はとても素晴らしいものです。遠回りしないで下さい。私の愛する家内は15年前にアメリカから来た預言者の預言にすぐに従いました。そして音楽教室に通ったのです。「あなたは音楽で用います。多くの人の前で賛美をします。」でした。この教会も預言を受けました。リバイバルが来る。そして沖縄の中心になると。この預言はもう何回も受けてきました。もうやがて起こると信じている。だから備えているのです。

エレミヤ29:11「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」アーメン。

2019年08月10日 牧師 一口メモ

ジョシュ・モヨ牧師を招いての預言聖会が、溢れんばかりの祝福の内に終わった。メッセージが大変素晴らしく心にグサグサ突き刺さった。また預言によって、励ましと慰めを受けることが出来た。ハレルヤ!

突き詰めれば、「神様からの人間に対するメッセージは1つである」と信じる。聖書は最初からそのことを伝えている。つまり「こころ」の取り扱いである。私達の「こころ」は日々どのように動いているかである。「こころ」は不思議なもので日々時間と共に変化する。朝起きた時から夜寝る時まで何回変化するか分からない。それは誰もが認めることであろう。自分の「こころ」を素直に覗くことが出来る人は、私の意見に賛同できると思う。

まず1番目に、モヨ牧師のメッセージはすべてが「こころ」を扱っていた。
クリスチャンとしての「こころ」である。基本的には私達(クリスチャン)が自分は何者か(アイデンティティ)を知っているか?ということが問われると言う。クリスチャンは何者か?あなたは何者か?そしてどのような信仰を持っているか?あなたの「こころ」はいつも肯定的か、それとも否定的な「こころ」が支配しているのか。私達は天地万物を創られた神を父とすることを信じ受け入れたのだから「こころ」は強くなっているはずだ。悩みに負けないはずだ。誰かに不満があっても、憎しみがあっても、納得がいかなくても、「こころ」は穏やかになるはずだ。またしばし落ち込んでもすぐに立ち直れるはずだ。これが神の子供達ではないだろうか。モヨ師の6回のメッセージすべてがそのことを語っていた。ただ、そのような「こころ」の状態になるための秘訣は、Ⅰテサロニケ5:16-18にある。①いつも喜んでいなさい。②絶えず祈りなさい。③すべてに感謝しなさい。この聖書のことばをいつも口から出すことによって、荒れたこころ、折れたこころ、怒りのこころを建てなおすことが出来る。

2番目に預言によって大きな慰めが与えられたことである。個人預言を始め教会に対する預言もあった。個々の預言は皆さんに勇気と励ましと慰めが与えられた。また何よりも将来に希望が与えられたことである。

この預言を大切にしてほしい。なぜなら聖書は次のように言う「預言を軽んじてはいけません。(Ⅰテサロニケ5:20)」ですから真剣に受け止めて実行することを願う。

また次のようにも言う。「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向って話します。(Ⅰコリント14:3)」今回の預言をしっかりと握って、夢と希望を持ってクリスチャン人生を歩もうではないか。天の父はあなたに素晴らしい計画を持っているのだ。信じる者は幸いだ。アーメン。

2019年08月04日 牧師 一口メモ

私達は「信じられない」と言う言葉をよく使う。クリスチャンになる前は当たり前に使っていた。自分の脳で理解出来ないことが身の回りに起こったりすると、そのように表現する。奇跡や不思議はすべて「信じられない」でかたづけてしまう。しかし、今は何でも出来るすばらしい神様を信じているから、そのような言葉は不信仰に当ると思うが如何なものだろうか。

聖書は「信じられない」ことのオンパレードである。神様は天地万物を言葉で創った。信じられない!アダムやエバは900年以上も生きた。信じられない!モーセによって紅海が割れて、その真ん中をイスラエルの人々は歩いた。信じられない!マリヤが処女なのに妊娠した。信じられない!イエスが中風の病気を癒した。信じられない!死んで4日にもなるラザロを生き返らせた。信じられない!イエスは3日目に墓から甦った。信じられない!等々。

しかし、何故にクリスチャンはそれらを平気で信じることが出来るのだろうか。洗脳されているのだろうか?「洗脳」という言葉を調べてみた。ある思想を改造し変換させることを「洗脳」と言うのだそうだ。ほとんどは権力者達や学者たちが嘘を教えたり広めたり、罪の意識(罪悪感)を植え付け、そして精神的な苦痛を与え、暴力で支配したりして考え(思想)を変えるのである。ならばほとんどの宗教は洗脳だ。しかし最大の「洗脳」は進化論であろう。これこそ「信じられない!!」と叫んでいいと思う。生物の源は何か分からないが、たぶん「アメ-バー」であろう。このアメ-バーから10億年の時を経て、次第に生き物の姿を形造ったそうだ。そして猿が登場し、その猿から人間の形に段々進化して変わっていったと教えている。進化しない猿もいるが(笑い)。しかも自然に誰の手も借りず、何の圧力もかからずに・・・。信じられない!このような教えこそが「洗脳」だ。しかも最悪の地獄の「洗脳」ではないか。

聖書の世界は「洗脳」ではなく「決断であり悟り」である。そして「信仰」へと発展していくのだ。「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:10)」そして、生きている神を体験して、聖書の中の出来事をすべて信じることが出来る。①私の罪の為に十字架に架かったイエスを信じ、②罪が許されたことを信じ、③人生を共に歩んで下さるイエスを信じ、無から有を生み出すことの出来る唯一の神様を信じたお蔭で、私の人生は最高の道へと導かれた。私は決断をした。「信じられない」から「信じる」へ変換したのだ。それによって信仰が生まれ、信仰によって「信じられない」がどこかに吹っ飛んで行った。アーメン。

2019年07月28日 牧師 一口メモ

幸福って、幸せって何だろう。一口で表せることが出来るだろうか。人それぞれに違うので、なかなか具体的に述べるのは難しいと思う。辞典を調べてみると「心が満ち足りている、運がいい、幸い」のことだそうだ。分かったようで分からないのが辞典の教えである。「心が満ち足りている」のは分かる。聖書の世界では「平安」と言っている。まさに「平安」に勝るものはないと信じる。特にクリスチャンになってからは、いつもそのことを祈っている。では、「平安な心」はどのような時に持てるのか。これが問題である。

1.7ケタ以上の通帳を眺めた時。2.褒められたり、感謝された時。3.良き理解者がそばにいる時。4.ショッピングの時。5.美味しい物を食べた時。6.趣味に没頭している時。等々だと思うのだが。しかし、良く考えて見ると、これらはいつでもガラガラと崩れそうなものばかりに見えるのだが、如何なものか・・・。甦りのイエス様が、弟子達に放った第一声の言葉は「平安があるように」だった。弟子達は希望の星を失って絶望の中にいた。またユダヤ人に捕まえられて、自分達も処刑されないかと恐れて隠れていた。将来が完全に閉ざされたときだった。その時に甦ったイエスは、突然、彼らのいる部屋に現れた。そして震えている弟子達に「平安」のことばを放ったのである。 今の日本は、恐ろしいくらいに事故事件と自然災害の多発時代になった。いつこのような事に巻き込まれるか分からない。子供からお年寄りまで生きづらい社会になった。「令和」になってから、とてもひどくなった。新元号に浮かれたのがほんの2か月前だが、新元号に託したすべての望みが失われたかのようだ。無知な政治家達に失望が続き、子供達も虐待に怯え、年金は減らされるばかり。認知症の方は増えるばかり。高齢者の運転事故も増え、うかうか道も歩けない。

このような不安いっぱいの社会で「幸せ」をどのようにつかめばいいのか。どのように平安を保てばいいのか。何にすがれば幸せ、平安が保てるのか。世の中の基準と教えは私達を幸せに導くのか。お金や物があればいいのか。良き隣人が居ればいいのか。クリスチャンにとって日常的に使われる「平安」の言葉は私達を「幸せ」に導くのか。イエス様は弟子達に教える。「拠り所が壊されたら正しい者に何が出来よう(詩篇11:3)」。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(へブル12:2)」と命じる。ダビデは「いつも目の前に主をおいた(詩篇16:8)」と感謝して祈った。イエスこそ生きている神である。そのイエスとの交わりを強めて行こう。その時あなたは幸せであろう。アーメン。

2019年07月14日 牧師 一口メモ

日本の国は参議院選挙たけなわである。貧富の格差が広がり、金持ちたちが更に金持ちになろうとする政権選択の選挙である。情け無用の金持ち達を助ける投票は止めよう。今回はお金の話をする。人が生きて行くために絶対的に必要な物であるので、当然お金は大切です。聖書はお金のことを沢山教えている。大事なものだから聖書は例えを用いたりして何度も取り扱う。その箇所を拾ってみる。

はじめに、お金持ちの偉人達を見よう。まずアブラハムである。彼は奥さんを利用して大金持ちになった。その子供のイサクも財産家であった。ヤコブは信仰と知恵を使って大財産家になった(創世記)。ルツの夫ボアズも大金持ちであった(ルツ記)。ソロモン王は世界一の大金持ちになった(列王記)。ヨブはウツの地方で一番の財産もちだった(ヨブ記)。ユダヤの指導者のネヘミヤも金持ちだった(ネヘミヤ記)。これらの中でソロモン以外は正しくお金を使った方々である。

二番目にお金が大好きな方々をみる。ルカ16:14お金が好きなユダヤの指導者達はイエスの教えを嘲笑った。だからイエスに糾弾された。「わざわいだパリサイ人達よ」と。非常に強烈な言葉を掛けられた。また毎日きれいな着物を着て遊び暮らしていた金持ちは、死後何処に行ったのかを教える。ルカ16:19「火の中にいて苦しんでいた。」聖書は金の正しい使い方を教える。金持ちになるなとは言ってない。むしろ知恵を使って金持ちになって貧しい人達を助けよと教える。困っている人々を助けるにも、教会の建てあげにも、伝道するにもお金は必要である。子供を教育するにも、良き楽しき人生を歩むにも必要である。皆さんが大金持ちになって欲しいと切に願っている。

三番目は金持ちに「なりたがる人」は気をつけよと警告をする。Ⅰテモテ6:9「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。」お金は私達の心を惑わします。ですから正しい使い方が出来るように祈ることが求められる。そして究極的な使い方を教える。マタイ26:7では、一人の女性が300万円分の高価な香油をイエスの頭に注いだ。無駄にしたので弟子達は怒った。しかしイエスはこの女性を褒めたのだ。何故に?クリスチャンはイエスを人生の基礎にした。お金ではない。貯金通帳でもない。有名になる事でもない。イエスを喜ばすことが私達の人生である。その時に聖書の凄さに気付くのだ。満ち足りた心こそ最大の幸せであろう。(ピリピ4:12)アーメン。

2019年07月07日 牧師 一口メモ

政治の話しを記したい。参議院の選挙がスタートした。おそらく自民党が勝つはずだ。なぜなら相も変わらず日本人が政治音痴だから。安倍政権にここまでバカにされて嘘をつかれても支持している。また自民党の支持率が圧倒的に高い。今回も勝利するだろう。去年の西日本の災害で被害に遭った方々の1万人が避難生活を強いられている。8年前の東日本大震災の避難生活者はまだ3万5人もいる。災害に遭った方々にこそ手を差し伸べるのが政治なのにほったらかしにされている。それでも自民党を支持している。無能で冷徹な心を持っている自民党と官僚達を支持している。本当にどうしようもない。

「Ⅱコリント11:20 実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。」

しかし2つの希望が出てきた。1つは沖縄である。ここ直近の出来事でも沖縄の誠実な県民性が示された。昨年の知事選で玉城デニー氏を選び、県民投票では辺野古反対の意思を明確に示した。県民の為の選択を自分達でちゃんとしたのだ。今回も参議院選挙も高良氏が優位だと報じている。正しい選択が出来ている。皆が投票して必ず当選させよう。

2つ目が山本太郎率いる「れいわ新選組」の登場である。この党の立候補者達を見ると感動させられる。重度の障害を持っている方2人が立候補した。自分の身の世話を自分で出来ない方々である。車椅子どころではない。ベッドの上に寝ころびながら活動するのである。記者会見を見て涙が出た。自分達みたいな障害がある方々を助ける政治をしたいと言う。また他の立候補者にシングルマザーがいる。LGBTの方がいる。24時間働かされた方がいる。拉致被害者の兄がいる。辺野古の基地に反対する創価学会員がいる。つまり弱者の代表たちが集められている。元来、「政治は弱者の為になければならない」というのが私の政治信条だ。山本太郎の政治信条は大変素晴らしい。例えば消費税廃止、奨学金の無償化、原発即禁、辺野古基地反対、一次産業所得補償、水道の民営化反対、種子法の反対、TPPの反対等々は当然だと思う、何よりも分かり易いのがいい。国民目線に立っているのと同時に弱者への政策を取り入れている。本来は政治家が持たなければならない基本の政治理念だと思うが・・・。だから少しだけ期待がある。

聖書には「エペソ6:12 私達の戦いは血肉ではなく、この世の支配者悪霊達だ」と言う。確かに悪霊に取りつかれているのは分かる。八百万の神々を持っているし、その頂点には天照大見神がいる。だからこそ戦い方が明確に建てられる。祈ってサタン悪霊どもを縛り追い出しをしよう。

2019年06月22日 牧師 一口メモ

日本は75歳以上の運転死亡事故件数が、74歳以下の2.4倍になっているそうだ。

いよいよ70歳の大台に乗ろうとしている私にとって他人ごとではない。確かに連日高齢者による事故は増え続けている。また逆走運転もしかり。年を取ればすべてにおいて劣っていくのは至極当然であろう。物忘れも起こってくる。

もっと現実なことは、ほとんどの方々が、年を取っていくに従って怒りっぽくなるそうだ。これもまた超要注意だが、こんなことを並べ立てると将来に夢も希望も持てないし、年を取るのが怖くなる。

しかしクリスチャンは違うと叫びたい。確かに旧約聖書に登場する人物達をみると、年を取ってから神様に用いられている。アブラハム、モーセ、ヨシュア等々。彼等を見ると大きな希望が湧いてくる。モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(申命記34:7)しかしがっかりするようなこともある。新約聖書では、なかなか年寄りの活躍は登場しない。ヨハネだけが長生きしている。彼は、パトモス島に島流しにあって囚人生活を送り、推定100歳まで生かされたようだ。そこで黙示録を書いている。しかし聖書は

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く」

とあるので、日々聖書を読めば(霊的には食べる)何とかなるかも。また、

「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように新しくなる」ともある。(詩篇103:5)

生きている神様の約束だから、信じて若者に負けない力をいただこうではないか。ありがたいことに私達クリスチャンには定年がない。これは本当に素晴らしいことだと思う。定年がないということは、夢と希望を持ち続けていくことが出来ると言うことである。日本沖縄にリバイバルが起こる夢を見る。そしてその為に望みを持って人々に証しをし、伝道、奉仕に励むことが出来る。また礼拝も感謝を持って捧げることが出来る。年を取っても、共同体の教会で神の家族と交わりが持てる。これはクリスチャンのすばらしい特権だ。信じてない方々は、定年後に人生に区切りをつけ、夢と望みの終焉を宣言する。あとは、ただ終わりが来るのを待つのみである。やっと「働き蜂」を卒業したと思ったら終焉である。神が与えた人生はそんなものではないはずだ。ですから私達は、天に帰る直前まで夢と望みを抱くことが出来る最高のクリスチャン民族です。その為に証しをし、伝道と奉仕に励みましょう。ハレルヤ!!アーメン。

2019年06月16日 牧師 一口メモ

今日は父の日です。お祝いの日だと思うのだが・・・。日本は毎日が「何かの日」になっている。「今日は何の日?」と確かめて、その日に合わせて楽しく生きるのもいいかなーと思う。沖縄には「そばの日」がある。その日は美味しいそば屋を探してそばを食べることを楽しむことも良いと思う。また「いい夫婦の日」がある。11月22日である。今まで、忙しすぎて夫婦でその日を楽しむことがなかった。いやあまり考えたことがなかった。しかし今年からはその日を夫婦で何かをしたいと思う。

「父の日」はあまり人気がない。毎日が父の日みたいなものだから当たり前だろう。家の隣に居酒屋がある。毎日大賑わいだ。中年の男たちが食べて飲んでいる。不思議なことは夕の6時頃から宴会を開いている。何が不思議かと言うと、仕事を終えたら「家」に帰るのが普通だ。しかし、何故か家よりも先に居酒屋に行く。ほとんどが男同士だ。

昨日の新聞に面白い記事が載った。「育児休暇、出産休暇」を取らない日本男性。

日本は世界一有給の「育児休暇、出産休暇」が取れる制度を持っている国だそうだ。しかし男性がその権利を行使するのはまれだそうだ。いかに男性天国かが分かる。子供の育児はほとんど母親の役目である。これが「毎日が父の日」の証拠でもある。早く帰って良き父親、良き夫になってもらいたいものだ。

責任を放棄したような父親は昔から存在した。私の育った所は小さな集落だったので、子供の頃、よくそのような人達を目撃した。酒で父親の有らぬ姿をさらけ出して隣近所に迷惑をかけ、煙たがられている父親がいた。その子供達が苦しんでいたのを思い出す。

聖書は父親の役目をちゃんと教える。その教えは世(社会)の教えとは違う。聖書に接して初めて真の父親の姿を知ることになる。
イサクは子供のヤコブに騙されるが憎むことはしなかった。逆に心配をして、将来に希望を持たせて旅立たせた。(創世記28:1~5)放蕩息子は父親から財産を奪い取るようにして大都会に行き、そこで放蕩の三昧を尽くしたが、あげくのはて大失敗をして虐待に近い仕打ちを受けた。一方、父親は息子の心配をしながら、毎日毎日、家から続く道の遥か彼方を見つめていた。ある日、ヨボヨボと足元がおぼつかない息子を遠くに見つけた。父親はすかさず駆け寄って行って息子を抱きしめた。そして無一文になっておちぶれて帰って来た息子を叱るどころか、かえって大宴会を催して父親の深い愛情を示したのである。(ルカ15:11~20)ハレルヤ!

2019年06月02日 牧師 一口メモ

早くも6月に突入だ。令和ブームも段々収まってきたようだが、政府とマスコミに踊らされて新しい希望に満ちた時代の幕開けだと騒いでいたら、恐ろしい事故や事件ばかりが起こっている。何が平和な新時代だ!と言いたいのだが責任を取る人は誰もいない。川崎市での子供達への刃物による襲撃事件が起きた。小6の女生徒と大人の男性と犯人が死んだ。昨日は福岡で引きこもりの男が母親と妹をナイフで刺して重傷を負わして本人は自殺をした。原因は引きこもりになり、「毎日ぶらぶらしないで仕事を捜すように」と母に注意されたので刺したそうだ。現代は多くの方々が心の病に陥っている。うつや不眠症、引きこもり、不登校等々の病気である。現代病と言ってもおかしくない。心療内科は大忙しだそうだ。有名な心療内科は予約しても半年待ちとのこと。

何故か、いつの間にかそんな世の中になった。誰の責任だ。福岡の事件は母親のことばに対する過剰の反応が原因であろう。私達は社会の常識を常に持っている。家庭の常識、学校の常識、社会の常識、会社の常識等々で、仕事をすると言うのも常識である。母親にとっては仕事をしないで家でぶらぶらしている息子を常識で判断したのである。そこに悲劇が起こった。しかし「仕事が出来ない心」を持っている人がいる。これも今は常識であるはずだ。息子の病気を理解できなかった。身体は元気だから仕事をしない息子は怠け者にしか見えなかった。問題の多くのパターンがそれである。私はいろいろな方から相談を受ける。大体は心の悩みを持っている方々だ。

この間も男性の方と話をした。これまで仕事をまともにしたことがないそうだ。なぜ?引きこもりで、人ごみの中が苦手で外に出るのが怖いそうだ。だから仕事を見つけても三日坊主で終わる。そして親からは文句を言われる。体は健康そうに見えても心は病気である。しかし普通の人には分からない。だから周りはきつい言葉を投げる。それに耐えられなくて心が折れる。そして悪い考えが頭を行き来する。

イエス・キリストはいつも優しい言葉を掛けながら伝道していた。12年間病に苦しんでいる人に「あなたの信仰があなたを直したのです」と。自分が祈ったのであなたは癒されたとは一切口に出さない。イエスはいつも病人を慰めた。そして「健やかに暮らしなさい。(マルコ5:34)」と励ました。苦しんでいる人にはどんな時にも優しい言葉をかけた。ハレルヤ!私達もそうなりたいものだ。

聖書からイエスの言葉を学んだら、これらの悲劇は回避できたかも・・・。残念だ。だから伝道しよう。アーメン。

2019年05月26日 牧師 一口メモ

最近の世界と日本の世相報道にはあまり驚くことは無くなっている。いろいろなことが起こり過ぎて驚くに値しなくなった。家族の殺人や事故事件、人の行動や考え等々にはもう驚くのはないのかと思っていたら、衝撃的なニュースが来た。先日(5/24)の新聞の記事を見てびっくりした。「人間の遺体を肥料に」アメリカワシントン州議会で合法化したそうだ。人の遺体を肥料化して、植物などの肥料として使うことを認める法律が成立したと述べている。このニュースはクリスチャンとして見過ごすわけにいかない。ついにここまで来たかという感じだ。豚や牛の病気等々で死んだものを粉砕機にかけて、また彼等の飼料にしているのは聞いていた。このニュースを聞いた時にも正直驚いたのだが、今は当たり前になってニュースにもならない。今回はその時のことと比べることのできないくらい大きな衝撃である。どのように伝えればいいのか分からないが・・・。あくまでも私の考えである。良いか悪いかは別として、このことを聖書から見てみよう。三つのことを見ることにする。

一番目に「人は神に似せて創られた」(創世記)

その意味は姿、形、心、霊もすべて崇高に創られたと言う意味である。しかも創世記をよく読んで見ると天地万物はすべて神の声で創られた。「光りあれ!」と命じただけで光が出た。そのようにすべて神の声で創った。しかし人間だけは神の手で創ったのである。(ヨブ記10:9 33:6)(イザヤ64:8)には「粘土」で形づくられたと述べている。つまり粘土を手でこねて丁寧に創ったと言うのである。神が人間を非常に愛情をこめて懇切丁寧に創られたのが分かる。それは鏡で自分を見ればよく分かるはずだ。完璧ではないか。頭の大きさ、目の位置、鼻、口の形を見れば一目瞭然であろう。それくらい神にとって人間は大切なのである。

二番目に「動物や植物を支配させよう」(創世記)

つまり動物、植物は人間とは違うことを意味する。あくまでも動物は動物である。人間とは比べられない。

三番目に「人は死ぬと丁寧に埋葬されている」(マタイ27:59、60)

墓が造られて、包帯で巻かれ丁寧に墓に納められる。だから人間は死んでも丁寧に扱うべきであろう。それを植物等々の肥料にするとは信じ難いのである。いつの間にか死体が売買されるようになるかも。ああ!恐ろしや人間!「マラナ・タ、主よ早く来て!!」と叫ぶしかない。